【知道中国 2795回】 二五・二・仲一
――“もう一つの中国”への旅(旅47)
ここらで脚注風に若干の身の上話、つまりタイとの関係を記しておくのがよさそうだ、と考えた。
じつはカンボジア難民キャンプ体験旅行から3年ほどが過ぎた1983年1月、幸運にもタイでの長期に亘る調査・研究の機会を与えられた。上司からの「貴重な機会だから家族同伴で行ってこい。得難い体験を将来の研究に生かすべし」と強く慫慂されたこともあり、スッカリその気になった。だが難関は家族だった。家内は一向に首をタテには振ってくれない。当時、仕事をしていたこともあり、彼女は環境の変化を望まず、「子どもも小さいことだし。1人で行ったら~!」と、タイでの生活に強い拒絶反応を示すばかり。
そこで一計を案じ、こう話してみた。タイに住む人の目が1つで手も足も3本だったら、そんなバケモノたちが繰り広げる異様な環境で家族を生活させるわけにはいかないから、単身で長期赴任をするのは当たり前。だが相手も同じ人間だ。ど~せ、大した問題が起ころうはずもない。問題が起こったとしても、帰国したタイ人の教え子たちが手助けてくれる。我が家によく遊びに来ていたヤツラだから、我が家の事情を十分に心得ているはずだから、なにが起ころうが鬼に金棒だ。大船に乗ったつもりでいても「どうってことはない(マイベンライ)!」。「愉快・快適(サバイ、サバ~イ)」な毎日が約束されたようなもの。こんな好機は二度とない――こう繰り返し口にすると、彼女は渋々ながらタイ行きに応じてくれた。
ところが、である。実際にバンコクで生活を始めてみてビックリ仰天。そうなることだろうとある程度は想像していたが、家族は「微笑みの国」の生活にモノの見事に、スッカリ、ストンと嵌ってしまった。
2年半ほどの任期を終えて帰国。それから2年半ほどが過ぎた1987年秋、再びタイ行きの打診があった。今度は前回とは大違い。家族は双手を挙げて大賛成しないわけがない。かくて1988年初から4年ほど、再びバンコクでの長期に及んだ調査・研究生活を送ったのである。かくて前後2回、合わせて7年弱をタイの華人社会に積極的にドップリと漬かって暮らしたわけだ。
当時を振り返ってみるに、彼らの先祖が福建や広東、それに雲南などの故郷から持ち来たった文化(=《生き方》《生きる姿》《生きる形》)を、ヤワラートに日参することで体感できたこと。対外開放に突き進み、社会主義市場経済の道を驀進する中国の姿に即応するかのように自らの立場や見解を自在に変化させてみせる彼らの変幻自在な対応力を呆れ返りながら体感できたこと。さらには中国社会の変化を華人社会の側から見続けることができたこと――を改めて感謝するばかり。これを千載一遇の好機というのだろうか。
すでにヤワラートでの体験の顛末に就いては、その一端を“披瀝”しておいたし、しばらくしたら芝居――彼らの先祖が故郷の潮州から持ち来たった潮州地方の精華でもある潮劇――を中心にして、潮州由来の生活について微に入り細を穿って綴る予定だから、乞うご期待、である。
そんなワケで、ここからは滔天の「暹羅に於ける支那人」が指摘した清朝統治の根幹を揺るがせた政治的対立に起因する「當國に於て軋轢競爭」が繰り広げられてから100年ほど後に起こり、世界を震撼させた天安門事件に対する華人社会の反応を、ヤワラートで発行されていた華字紙(日刊紙)の報道振りや社説内容を基に考えてみたいのだが、先ず指摘しておきたい点は、北京で繰り広げられていた一連の事態を「頑迷な保守派(鄧小平指導部)VS開明的民主派(学生・知識人)の闘争」といった視点からは捉えてはいなかったことだ。国籍は違うも同じ漢族(系)・・・「血は水よりも濃い」らしい。《QED》