【知道中国 2794回】 二五・二・初七
――“もう一つの中国”への旅(旅46)
「華僑の革命へ母」への“ご恩返し”の狙いもあっただろうが、孫文は海外における権利保護や豊富な資金運用などを目的とする部署として僑務委員会を設置している。だが、実質的には名存実亡に近かった中華民国である。当初に企図したような形には機能せず、「革命の母」は肩透かしを喰らうしかなかった。
なお、中華民国を正式国名に冠する台湾政府は孫文以来の中華民国政府の立場から部内に僑務委員会を置き、主にタイ北部山岳地帯に居住するかつての反共系集団や各地の台湾系僑団に対処している。一方、共産党政権でも1949年の建国に際し、孫文以来の政権に倣い部(省)級の僑務委員会を設置し、主として海外華僑社会における支持者拡大と外貨集め工作を進めた。海外から送金される「僑匯」と呼ばれる豊富な外貨が国内の親族の生活を支援する一方、建国当初の貧弱な国家財政を支えた。
華僑を打倒すべきブルジョワ資本家階級と猛烈に批判した文革の際には、同委員会は解体されている。だが文革が新たな段階に移った1960年代末になると、外交部内の僑務弁公室(正式名称は「華僑事務弁公室」)として復活。ことに華人企業家の存在感(カネ・モノ)への関心の高まりに伴い、政府部内での僑務弁公室の重要度は増加傾向にある。
なにやら途方もない方向に足を踏み入れてしまい、反省・猛省するばかり。改めて本題の滔天に戻り、「暹羅に於ける支那人」を読み進める。
滔天は「暹羅國に在留する六百萬以上の支那人」を「三派に別つ可し」とする。一派は「土人と支那人との間に出來たる雜種」で、「女は皆な暹羅人の風を爲」すが、「男は皆な支那の風俗に隨ふ」。なぜ男はそうするのか。徴兵逃れができるからである。
振り返ってみれば、滔天の暹羅滞在は先に挙げておいた清国農工商部が外務部宛てに照会状を発出する10年ほど前のこと。であるなら、19世紀最末期から20世紀初頭の10年ほどの間に、チュラロンコン大王が近代化を断行したことで、華僑成人男子に対する対応が一変してしまった。つまり暹羅に住むなら誰もが暹羅国民であり、国民皆兵だ。「支那の風俗に隨」おうが兵隊に引っ張って国防の任務に当たらせるべし、ということだろう。
じつは「雑種」の中にも「當國の風俗に隨ふ」ものが見受けられるが、それは「當國の官吏とならんと欲するもの」であった。
大多数の「雜種」とは別の一派が「滿清現朝の正朔を奉ずる民」であり、残る一派が「大明の正朔を奉ずる革命黨の末流」となる。「革命黨の末流」を、滔天は中国の民間で隠然たる影響力を発揮し「滅満興漢(満洲族王朝を打倒し、漢族の王朝を興せ)!」を掲げた会党(秘密結社)の「哥老会の一部」であり、この両派が「當國に於て軋轢競爭」を繰り返し、「雜種人は傍觀の地位に立つ」と見なした。
両者の勢力は拮抗していることから、勢い「其競爭も甚だ激烈なり」。互いが互いの祭礼や集まりを襲撃し「公然暴力」を振るい、日常でも「豚斬包刀を以て白晝斬殺」することも珍しくはないほどであった。
ということは、どうやら中国国内における鋭い政治的対立――この場合は満洲族皇帝を戴く清朝体制支持勢力に対するに「滅満興漢」を掲げる反体制派――が、もちろん大多数によって構成された「雜種」の社会全体に直接的な影響を与えることはなかっただろうが、たとえ一部であったにせよ、深刻な影響を与えていたわけであり、この事実は、やはり注目しておくべきだろう。
それというのも中国国内で発生し、社会全体を震撼させるような激しい政治的対立に誘引されるようにして、「暹羅國に在留する六百萬以上の支那人」の遙かな後裔の間でも対立・分断がみられることがあるからだ。その一例を天安門事件にみておきたい。《QED》