【知道中国 1068回】                       一四・四・念二

――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(中野11)

「中国の旅」(中野重治『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年)

 

55年から57年秋の間に、じつは中ソ関係は劇的に変容していた。にもかかわらず野中は、それが全く判ってはいなかったようだ。

 

63年9月6日の「人民日報」に掲載された「人民日報」と「紅旗」の両編集部共同論文である「ソ連共産党指導部と我々との見解の相違に関する由来と発展」を見ると、両国関係の亀裂は56年2月のフルシチョフによるスターリン批判に端を発している。その後、中国共産党は中央政治局拡大会議などを中心に論議を進め、56年4月5日の「人民日報」に「プロレタリアート独裁の歴史的経験について」と題する論文を公表した。そのなかで「スターリンは全面的に誤りを犯したと考える者もいるが、それは大いに間違った考えだ」「我々は歴史的観点に立ってスターリンを見なければならない」と主張すると共に、「教条主義」、つまりソ連型発展モデルに反対する方向を打ち出している。

 

56年4月5日こそ、建国直前に毛沢東が掲げて以来の「ソ連一辺倒」路線への決別であり、毛沢東が自らを世界社会主義化に指導者に“昇格”させた瞬間だった。であればこそ当然、中国におけるソ連の扱いも違って来ようというものだ。

 

中野は「中国じゅう、どこへ行っても、外国人向けホテルは、ロシア人か、ロシア語を話せる人間を目安にしていることがわかる」とのギランの見解を批判しながら、自らの体験を綴っている。それを思いつくままに引用しておくと、

 

■「私たちの経験からすると、北京飯店では、便所や浴室は中国語とロシア語と英語で書いてあった」

 

■「上海の錦江変飯店では、〔中略〕献立表に外国語があったとすれば、確かではないが英語だけだったろう。杭州のホテルでもそんなものは目につかなかった。〔中略〕武漢の何とかいう、海という文字のついたホテルでもそんなものは見かけなかった。〔中略〕広州の愛群大廈でも、そんなものは見かけなかっただけでなく、〔中略〕紙屑を捨てる箱なぞはたしか漢字だけでそのことが書いてあった」

 

■「つまりホテルのようなところでは、必要な場所に第一に漢字が書いてあった。(わずかにロシア語、英語、時にフランス語も添えられていたが)全体としていうと、ほとんど何もかもが漢字だけ、中国語だけで押しとおしているという感じが強かった」

 

■「私自身は、めぐりあわせではあったろうが、北京でも上海でも数えるほどしかロシア語を耳にしなかった。それもエレベーターのなかでお互いにぼそぼそいっているロシア人たち、〔中略〕(ホテルでは)どの外国人も、エレベーターの階などは片ことの中国語でいっていた」

 

■「中蘇友好協会の建物を除けば、ロシア語、ロシア文字が幅をきかせているということは一九五七年秋現在では一般になかった。むしろ中国では、あまりに中国語と漢字だけでひた押しに押し通していると思う」

 

■「ホテルへ行っても、料理屋へ行っても、百貨店に行っても、停車場に行っても、駅の名札を見ても、船に乗っても、飛行機に乗っても、〔中略〕外国語、外国文字、ローマ字さえ使っていない」

 

かくて中国では「何から何まで中国語一点ばりで押し通している」から、『六億の蟻』が記すように「ソ連人を鐘、太鼓でたてまつって」はいないと、中野はギランの“偏見”を嘲笑してみせる。だが中国は、ギラン訪中当時の「ソ連一辺倒」からソ連批判に大きく舵を切っていたのだ。かりに中野が『六億の蟻』の記述と自らの体験の差から中ソの間の亀裂を読み取っていたら、その慧眼は大いに讃えられたはずを・・・節穴でしたネッ。《QED》