【知道中国 2791回】                      二五・一・念九

  ――“もう一つの中国”への旅(旅43)

なぜ、彼らは「他に向つては往々不義不德の行爲」をしながら、仲間内では「德義を守り、信用を重ずること實に無頼」なのか。そのワケを滔天は次のように説いた。

「彼等相携へて當地に來るや、五、六の親懇相結んで同盟をなし、最初は豚小屋の如き寄宿舎」で、人間以下の生活を送りながら日銭を稼ぐ。しばらく働き、小銭を出し合い、「所謂合資的組合になして極々小さき一軒を借り」て、小商いを始める。仲間内で「理財に長け世故に通じ、且つ信用あるもの」に経営を任せ、他は以前と変らず肉体労働に励み、手にした収入を、その店に投資する。もちろん経営を任された仲間は、「一意專心其任に當る」ことになる。

やがて店が繁盛し大きくなり新しい店員が必要となると、1人、また1人と順番に肉体労働を切り上げ、商店経営に加わることとなり、やがて当初の仲間全員が「勞働者の地位を卒業して、純然たる商人となる」。こうして彼らは立身出世を重ねる。

彼らの間には様々な相互扶助の仕組みがみられるが、たとえば無一文でやって来ながら「此の組合に加盟するもの」がいたら、「統領は直に令を發し」て「合資的組合」の仲間から資金を集め、新規加入者に貸し与えて商売をさせる。このようにして、無一文の新参者でも開業資金を手にする仕組みが働くことになる。

だからこそ、自らの生活を守るためには「他に向つては往々不義不德の行爲」を繰り返そうが屁とも思わない。なぜなら「他」は助け合いの仕組みに加わっていないからだ。なによりも仲間の間では「德義を守り、信用を重」んじなければならない。仲間に向かって「不義不德の行爲」でもしようものなら、相互扶助のための「合資的組合」から放り出されてしまうからだ。そうなった瞬間に、生きる道は断たれることになる。

暹羅には「支那の公使館とか領事館とか云ふもの」がなく、彼らは外交的には守られてはいない。だが、彼らは意に介さない。それというのも「彼等の考へには暹羅國に寄留して居ると云ふ觀念は少しもなく」、それゆえに「唯我國土の一部に居留するが如く思ひ居る」ようなものだから。つまり華僑は「暹羅國」を「我國土の一部」と考えていると、滔天は捉えた。

だが程なく華僑は、じつは「暹羅國」は「我國土の一部」ではないことを思い知らされる事態に直面する。それは「大王」と呼ばれ、歴代国王のなかでも別格扱いにされるラーマ5世による一連の近代化政策一環として施行された徴税と徴兵の制度である。そこで少し滔天から離れ、これら政策に対する華僑の右往左往振り、率直にいえば身勝手極まりない主張をみておきたい。

清国農工商部は光緒32(1906)年11月4日の日付で、外務部に宛てて暹羅在住の「華人保護」のために使節を派遣して条約を締結したら如何、との照会状(「咨」)を送った。それには暹羅に仮寓する華僑商人(「僑居暹羅華商」)からの“窮状”を訴える請願書(「稟」)が添付されている。そこで照会状の前に、身勝手なリクツが展開されている請願書に目と通しておきたい。

――以前、暹羅は「藩」と称し属国のようなものであり、中国に住んでいると同じだった。ところが暹羅の君主(ラーマ5世)が欧州各国を歴訪し、文明の空気を吸うに及んで、帰国後、政治改革を始めてしまったことから、我われを取り巻く環境は一変し、我われの感情を逆撫でるような措置を採るようになった。

たとえばマレー、ヴェトナム、インド人ですら免じられている人頭税だが、我われだけから徴収する。カネを持たない貧乏人は無慈悲にも逮捕され、監獄にブチ込まれてしまう。昔は属国だったクセに強権を振り回すなどは、じつにフテブブテしい限りだ。《QED》