【知道中国 272回】 〇九・八・三〇
―これは、いったい、なんなんですか・・・
それは、山の斜面を利用して2007年に建てられたという。幅8メートル、高さ20メートル。薄ねずみ色の高い壁が四面をぐるりと囲い、所々が木々の緑で覆われた鮮やかな藍色の瓦屋根を持つ三層の豪邸風の構え。手前の小川に掛かった橋を渡ると、左右を獅子の置物で守られた頑丈な鉄製の正門。中に入ると「千古堂」と書かれた扁額が見え、コンクリートの中庭の両側には優美な曲線の六角屋根を持つ小体な東屋が置かれている。東屋の脇の階段を上ると石畳の二階には小さな池があり、石の腰掛と机が左右に2組配され、一部が吹き抜けの天上からは明るい陽光が燦々と降り注ぐ。奥にはガラスで区切られた小部屋。龍の彫刻で飾られた柱や壁の所々に、瑞祥を表す動物の麒麟や鶴の明るい色調の壁画がみえる。だが、築2年ほどだというのに人が住んだ様子がない。もったいない話だ。
この建物の周囲を見回すと、斜面には無数の墓地。写真だから断言できないが、おそらくは南向きの斜面のはず。じつは千古堂は遺体というゴ主人サマを待つ超豪華墓地だった。南向きの斜面を背に前面に小川ときたら、風水でいえば最高の埋葬地。子孫繁栄は間違いなし。これだけでも驚きだが、建設費100万元と聞けば、いよいよビックリ。
ここは長江下流の浙江省温州市塘下鎮。温州は逸早く市場経済に突入した家庭用雑貨の生産地であり、ブ厚いツラの皮を持ち金儲けのためには命も惜しまない温州商人の産地としても有名。すでに元の時代には、現在のカンボジアで特産のゴザを売りまくっていたらしいから、カネ儲けの歴史と商売に対する執念は凄まじいばかり。勇猛果敢・一攫千金
じつは千古堂を建設したのは、近郷の徐家の4兄弟。工場を経営している次男を地元に残し、他の3人は母親と共にイタリアへ出稼ぎに。次男に介護されている84歳の病気がちの父親にとって、千古堂は終の栖。その時を待つ父親の願いに兄弟が応えたわけだ。ならばきっと超豪華な棺も用意されているに違いない。聞くも涙、語るも涙の孝行息子たちだ。
そこで舞台は徐兄弟と母親の出稼ぎ先のイタリアへと飛ぶ。
イタリア在住の中国系住民は75年の時点で402人。その後の推移を見ると、1,824人(86年)、9,800人(87年)、19,237人(90年)、22,875人(93年)と急増しているが、恐らく現在では少なくとも93年当時の数倍に膨れ上がっていると考えて、当たらずとも遠からじ。数10倍とまでいかなくても、10数倍は数えられるかもしれない。じつは86年締結の条約によって中国資本のイタリア進出が促され、大量の中国人労働者がイタリアに流入することとなった。改革・開放以降に海外に流出した中国人を合法・非合法の別なく新華僑と呼ぶが、おそらく徐兄弟と母親も新華僑の一員だろう。その多くが2,000軒を超える店舗が犇くローマの商業地区で知られるエスクィリーノ地区に集まっていて、彼ら経営の店舗が少なくなく、衣料品、皮革製品、靴などを扱っていると伝えられる。ならば、ほぼ間違いなく温州商人・・・とくれば、同地区の一角で、徐兄弟と母親は、次男が送り出す温州製品をセッセと売り捌き、金稼ぎに汗を流しているかもしれない。
彼らは“郷に入っても郷に従わず”。そこで地元の業者や住民とのイザコザは絶えない。
ローマで稼いで温州で親孝行。だが、せっかくの「衣錦還郷(故郷に錦を飾る)」の象徴である千古堂も地元政府の手で6月半ばに解体されてしまった。上に政策あれば下に対策あり。なあに徐兄弟は今頃、第2、第3の千古堂建設を考えていると思いますヨ。 《QED》