【知道中国 2788回】                      二五・一・念一

  ――“もう一つの中国”への旅(旅40)

佐藤は「財力と計畫との基礎が乏しい」と指摘したうえで、「本邦人の中には本國に於ける失敗者の、赤裸々で往つた者などが多い」。さらには「居住後年を經ること尠く、經營の基礎が薄弱である」と指摘する。「本國に於ける失敗者」が一旗揚げようと無手勝流で繰り出す日本人に対し、「歐米人は數十年來相當の資本を却して基礎ある經營をして居る」。では「基礎ある經營」とは何か。佐藤は、「例へば數多の資本を投じて支那人を敎化し、以て基礎を確實にしつつある」。一方、「本邦人は唯自己の經營に傾注し、未だ歐米人の如き經營の地位に達していない」

そこで佐藤は、「數十年來相當の資本を却して基礎ある經營をして居る」欧米人を向こうに回し、日本人が伍していくのは容易なことではない。だが、「多人數の國民が外國にて生活の資を得るだけでも國家の慶事である」と結論づけるのであった。

 高橋と佐藤の考えを記しながら、やはり頭に浮かんだのは勝海舟であった。勝は『氷川清話』(講談社学術文庫、2003年)で、明治期の日本人の「海外発展」を取り上げて次のように説いている。

「海外発展といふ事は、貧乏人で小ポケナ島国の日本にとつては最も肝要な事サ。しかしその行く順序がまるで顚倒して居るよ。

まづ一番槍が例の女だよ。お次がソレを顧客とする小商人やナラズ者サ。それからその地方が有望といふ事でもつて中商人が行き領事館が出来るといふ始末さ。ソコで外国では日本人といふ奴は実にヒドイ奴ばかりだとなつて到るところ評判が悪く、万事警戒してかゝる。これもミンナ若い男共が意気地がなく睾丸〈キンタマ〉がない奴ばかりだからだ」

ところが、殖民地列強の行動は日本とは明らかに違っていた。

「ソコになると外国の奴らは実に見上げたもので、まづ海外の不毛の地には教法師が行つて伝道ももすれば、医薬慈善の事をやる一方、地方の物産や事情を本国に報告して何々の商売が有利だなどと報告する。今度は資力ある豪商が出掛ける。小商人も行く、女も行く、領事館が行くといふ風である。ソレであるから外国人はみなその地方では評判がよく、たとへゴロつきでも紳士となり、淫売でも貴婦人として待遇されるわけサ」

では、なぜ日本人はそうできないのか。勝は続ける。

「一体醜業婦々々と言つて軽蔑するが、それを善用すればたいしたものだよ。日本のケチナ外交官などでは利用法も知るまいよ。ツマリ女などはホツておいて構わぬに限るサ。万一事が起つた時は、ソンナ奴は日本人では御座らぬと突放していゝ事だ。日本の役人共は馬鹿正直で公私の区別を明かにせぬから困る。個人としては日本には悪人も大分居るやうだが、国家としてはまるで馬鹿正直サ」

21世紀も四半世紀を過ぎた現在の人権感覚では受け入れ難い部分もあろうが、勝の説くところが当時の日本における海外進出の一つの側面を語っているなら、どうやらヤワラートでの日本人もそのように振る舞っていたということだろう。それにしても「国家としてはまるで馬鹿正直サ」とは、日本が早急に克服しなければならない永遠の宿痾に違いない。

さて勝の説く「小商人」なのか「中商人」なのかは不明だが、滔天によれば当時のヤワラートには《日本雜貨店三軒あり。曰く櫻木商店、曰く圖南商店、曰く都築商店。孰れも中々景気宜敷》いが、なかでも桜木商店が最も繁盛していた。それというのも《日本の品物を日本人が販賣する》ことと《日本國と云ふ虚名否威信が重きをなせる》からである。

《日本店に対し支那の商人中、品物の注文を頼むもの》は少なくない。だが創業から日が浅く受け入れ態勢が万全ではなく、注文の半ば以上を断らざるを得なかった。佐藤が指摘した「財力と計畫との基礎が乏しい」のはヤワラートでも同じということか。《QED》