【知道中国 2789回】                      二五・一・念三

  ――“もう一つの中国”への旅(旅41)

以上に記した高橋、佐藤、勝の三者三様の考えに滔天が指摘するヤワラートにおける日本社会の姿――《日本人ノ女浪屋》から《日本雜貨店三軒》の営業実態まで――を重ね合わせてみるなら、当時から現在につながる日本人の海外進出の長所と短所とが浮かび上がってくるのではないか。

さて、肝心のヤワラートにおける華僑である。

宮崎は冒頭に《有躰に曰へば、暹羅は支那人に依つて立ち、支那人の爲めに維持せらる。換言すれば、暹羅は暹羅人の暹羅にあらずして、支那人の暹羅とこそ言ふべけれ》と記し、在留邦人と比較しながら、彼が体感した「暹羅に於ける支那人」の姿を説きはじめる。以下、特に断らないがかぎり滔天に従って敢えて「暹羅」と綴っておく。

香港でもシンガポールでも《支那人の勢力に一驚を喫せざるものはあらざる可し》。バンコクに来て第一に目立つのも《矢張り支那人なり》。彼らは《人數に於いて本國人より多》いばかりか、《實力に於て遙に本國人の上》にある。現実を素直に捉えるなら、《暹羅は支那人に依つて立ち、支那人の爲めに維持せらる》。滔天の目に映った《暹羅は暹羅人の暹羅にあらずして、支那人の暹羅》であった。

滔天は華僑の数を全土で600万人、バンコクで20万人以上と記している。当時のバンコクの人口についての内外で様々な研究がなされているが、そのうちいくつかに当たってみると、19世紀半ばの時点でバンコクの総人口30万人に対し、華僑は20万人といった辺りに落ち着きそうだ。タイ人と華僑以外はマレー人、インド人、他のアジア人(このなかに日本人が含まれているはずだ)に加え西洋人となる。

1904年、タイで最初と思われる公的な人口調査(調査対象はバンコクと首都周辺)が行なわれているが、それに拠れば総人口は867,451人で、このうち華僑は197,918人とされる。

1822年から1855年の間の人口に関する様々な研究をみると、バンコクの人口に占める華僑の割合は最大で66%、最少で20%となっている。往時のヤワラートの街角に立ったら、タイ人を見掛けることは極めて珍しかったはずであり、66%という数字は低過ぎるように思える。バンコク全域に広げるなら、あるいは20%という数字が現実的であったかもしれない。

滔天に戻るが、暹羅には祖国(清国)の領事館もないし、通商上の特権も持たない。そのうえに《彼らの本國よりも一層不規律なる暹羅の惡法惡政の下に立》たされながらも、官民の枢要な機関を押えている。たとえば《數千輛の日本人力車を挽く》車夫も《悉く支那人》だった。市場で《肉類、魚類、野菜の類を販賣する》者も7割方は華僑である。

《船渠會社》では、《茲に働く大工、鍛冶、機械工より通常工夫に至る迄、殆んど皆支那人なり》。だから、同社で《一旦支那人と手を斷るに至らんか、事業は直下に中止せざる可からず》。当時、最有力の海運会社で米穀輸送を担っていた「ヴインドソル・コンパニー」でも船長から乗組員、それに事務員まで華僑を雇わないわけにはいかない。彼らの仕事の手抜きと《盗人根性》にはホトホト呆れ果てるが、それでも《暹羅人は彼等に比して更に大いに劣る所》があるから致し方がない。

そこで試しに日本人労働者を雇ったところ予想以上の仕事振りで、各社が先を競って採用に踏み切った。だが1ケ月もすると、期待は嘲りへと真っ逆さま。それというのも、賃金が安いとか、仕事が酷だとかブツブツ文句ばかりで、他に転じてしまったからだ。

かくて滔天は《一氣呵成の業は我人民の得意ならんあれど、此熱帯國にて、急がず、噪がず、子ツツリ子ツツリ遣て徐ける支那人の氣根には中々及ぶ可からず》と記す。《QED》