【知道中国 2790回】                      二五・一・念六

  ――“もう一つの中国”への旅(旅42)

滔天の暹羅滞在から10年ほどが過ぎた1906(光緒32)年末の日付のある、暹羅における華僑の現況を綴った清国外交部の公式文書には、暹羅に在住する華僑(原文は「中国僑人」「暹国華旅」「華人」)について、次のような記述が見られる。

――「暹羅の人口は約八百万人」で、「暹羅に居留する華僑で商業を営み、あるいは労働に従事している者は二百万人を下らず、最近になっていよいよ数を増している。〔中略〕暹羅に居留する華僑の大金持ちは数多く、彼らは商業の大半を押え、経済を左右する力を持ち、隠然として全国の財政権を掌握している」「暹羅の華僑は二百万人を下らず、そのうち正真正銘の中国人は百余万人で、暹羅の女性と結婚し家庭を築き現地化した者(原文では「土人」)は約六十万人」――

以上から、清国外交部は暹羅の人口の4人に1人が華僑であると把握していたことになる。華僑人口に関しては諸説があり、また当時は精確な人口調査など期待できるわけはない。だから、相当数の華僑が在住し、社会全般に相当に強い影響力を及ぼしていたと曖昧に捉えておくのが現実的だろう。

滔天に拠れば、「精米所、木材會社、若しくば鐵道會社に至るまで、總ての會社、總ての事業に、支那人を使役せざるものな」く、彼らが働くことを止めたら、「諸會社事業は共に中止せられざる可からず」。つまり暹羅における企業活動は機能しなくなる。

「盤谷府中」――ヤワラートと見て間違いなかろう――において店を構えている暹羅人は極めて限られている。これに対し「屑屋、空瓶買、氷商等の小より、貸人力、貸馬車、裁縫師、洗濯屋、靴師、寫眞屋、汁粉屋、煮賣屋、賭博屋上り、西洋料理、支那料理乃至女郎屋」、さらには「雜貨屋、木材店、米穀仲買商」に至るまで、日常生活に関わる商売の「殆ど悉く支那人の手に依つて運轉せらる」のであるから、やはり華僑を欠いたらば日々の生活にも支障をきたすことは必定だ。

このような状況から、滔天は「彼等が商業經濟社會上に於て全權を有すると云ふも過言」ではない、と見なす。暹羅の国庫の収支状況も国軍勢力の実態もハッキリしないが、国庫収入の大半は「支那人の手より支拂はるゝこと無論なり」。つまり国家経営の根幹である税金も華僑頼み、ということになる。

「毎年暹羅全土の營業税の取立方をば、入札を以て受負ふの特權を、支那人に限つて之を與へ」、徴税の全権まで委ねてしまっているわけだから、「支那人にして一旦萬事を休止して本國に立ち歸るとなれば、暹羅と云ふ國は、もぬけの殻となつて、其儘寂滅するに相違なかる可し」であった。

では、どのような方法で、このような特権的地位を手にすることができたのか。

じつは「暹羅は近年に至るまで、殆ど清國の半屬國の如き有樣」だった。彼らが「此地に侵入し始めたるは、隨分久しき事」であり、その勢いは年を経る毎に増すばかりであり、「將來の勢力は亦實に測り知る可からず」。そのうち「半屬國」からホンモノの属国になりかねかい。その主流は「南清廣東及其付近の者にて、俗に所謂廣東苦力なるもの」だ。

彼らは、ほぼ例外なく無一文・裸一貫でやってきて最底辺の肉体労働者から出発し、「漸次商人となり、遂に鉅萬の富を積むと云ふ次第」であり、最初から商売の元手を持ってやって来る者は例外中の例外である。

では、そんな彼らが、なぜ、暹羅の「商業經濟社會上に於て全權を有する」までに力を持つことになったのか。じつは「彼等は他に向つては往々不義不德の行爲をなし兼ぬ癖に、相互組合上且つは商賣上に至つては德義を守り、信用を重ずること實に無頼なり」。そこで滔天は「彼等が膨張の第一要素は此處にある歟」と考えるのであった。《QED》