【知道中国 2760回】                      二四・十・念五

  ――“もう一つの中国”への旅(旅12)

ポル・ポト政権の筆舌尽くしがたい残虐行為を目撃し体験しながらも、残された兄弟は生き延びてタイに逃れる。

「バンコック国際空港に入っていく。搭乗ゲートでは、大きな翼のついた銀の巨大な弾丸が私たちを待っている。耳に聞こえるほど心臓が高鳴り、手のひらは汗で湿る。父の夢で勇気づけられた私は飛行機に乗り込」んだ。行き先は、やはりアメリカだった。

あれから40数年が過ぎた。カンボジアを地獄と化した全責任がポル・ポト派とそれを支えた中国共産党にあることは公然の秘密。だが一切の事実は固く封印されたまま。いまやカンボジアはチャイナ・マネー(人民元)の掌の上で踊り、習近平政権が強行する一帯一路の網に絡め取られたのも同然だ。これもまた国際政治の現実と言われればそれまでだが、それにしても革命やら民族解放の“大義”とは、じつに胡散臭いものだ。

次は『我与中共和柬共』(周徳高 田園書屋 2007年)である。

著者は1932年にカンボジア西部バッタンバンの農村に生まれた。父親は広東省掲陽県で農民だったが、カンボジアに渡り鉄道作業員となる。家庭が貧しく、著者は12歳から職人奉公に出た。自らが置かれた劣悪な環境ゆえに共産主義思想に強く魅かれ、中国共産党がカンボジア華人社会に設けた地下組織に加わる。やがてプノンペンで華字紙『棉華日報』に職を得て記者として12年間働くが、この間、中国大使館にスカウトされ、特殊工作を担当する北京の「中調部」に属する秘密工作員となり、“危ない橋”を渡る人生を歩みはじめる。なお「柬共」はカンボジア共産党、「棉」はクメールの漢字略称。

 1963年にはカンボジア訪問の劉少奇夫妻爆殺を狙った国民党の謀略を事前に摘発するなど、忠実で優秀な情報工作員として働く。だがポル・ポト政権成立前後から、中国共産党の方針に疑問を抱きはじめた。

中国共産党のカンボジア国内工作のための手駒であった華人地下組織の幹部に対し、中国大使館はカンボジア共産党の支配する「解放区」に入りカンボジア共産党の党勢拡大に努め、最終的にはカンボジア共産党を支配下に置くべしとの指令を下す。

じつはカンボジア共産党の指導権を確保したポル・ポト派は、中国共産党の階級分析を忠実に学んでいた。だから彼らにとって、カンボジア人民の血を吸うブルジョワ階級である華人はカンボジア人民の敵でしかなかった。加えるに、中国共産党は現地の客観情勢を無視し、身勝手・強引にも華人地下組織をカンボジア共産党に編入させてしまう。

かくて著者ら“忠実な革命戦士”の運命は、ポル・ポト派の思うがまま。堪り兼ねた著者等は地下組織全員の中国への引き上げを懇願するが、中国共産党から「以後、我々と諸君とは一切関係なし」と、たったの一言で無慈悲にも斬り捨てられてしまう。やがて著者も、阿鼻叫喚の地獄絵図と化したカンボジアを逃げ惑うこととなる。

1978年夏、カンボジア東部からヴェトナム軍が進攻を開始する。

9月、救援を求めて訪中したポル・ポトに向かって、「ヴェトナムは裏切り、恩知らず」と痛罵した鄧小平ではあるが、返す刀で「カンボジアの苦境はポル・ポト極左路線が自ら招いてしまったものだ。国民的支持を集めているシハヌークと統一戦線を結成し、ヴェトナムに対抗せよ。だが、中国は反ヴェトナム支援軍を派遣できない」と熱弁を振るった。この時、ポル・ポトは薄ら笑いを浮かべるだけ。ポル・ポトは腹の中で鄧小平を、さぞかし「反革命の修正主義ヤローめ」と思っていたに違いない。

鄧小平はシハヌークに向って「殿下の愛国の熱情を汲み取らないばかりか、中国に対してすら反抗的であったポル・ポト派とはきっぱりと手を切ります」と確約したと、著者は綴る。これに続いて著者が鄧小平に投げつけることばは、まさに呪詛に近い。《QED》