【知道中国 2759回】                      二四・十・念三

  ――“もう一つの中国”への旅(旅11)

カンボジアのフナン・テチョ運河を一帯一路に組み入れているはずだから、中国の全面支援(介入?)は当然だろう。かくてカンボジアに対する中国の影響力は増すばかり。

   

9月12日、中国の殖民地(直轄領?)と化したシハヌーク港で、日本支援の港湾建設・整備プロジェクトの一翼を担う埠頭が竣工した。式典でフン・マネット首相は「大規模な物流インフラ建設は将来的に国家の安定をもたらし、大きな可能性を秘める」と語り、駐カンボジア日本大使は「シハヌーク港は一貫して両国の協力の中心だ」と応じたと伝えられるが、いつの間にやら一帯一路に組み込まれるなんて事態は、断固として避けるべし。

話が大いに横に逸れてしまったが、KID訪問以降の40数年を振り返ってみるだけでも、この地域をめぐる内外情勢の激変に改めて驚かされる。

ここで話題を改め、ポル・ポト時代を生き抜いた華僑・華人は、あの激動の時代をどのように捉えているのか。関連する何冊かの書籍を読み返しながら考えておきたい。

先ず『最初に父が殺された』(ルオン・ウン、無名舎、2000年)である。

 「カンボジア人と中国人の血が流れてい」る著者の父親は農村の豊かな家で「何不自由なく育」ち、「ノロドム・シハヌーク殿下直属のカンボジア王室秘密情報機関」に勤務。「自分の背が高いのは中国人の血が100パーセント流れているからだ」と自慢げに語る母親は中国生まれ。夫婦は7人の子沢山。長男のメンはフランス留学から戻り結婚直前。10歳のキムは「金」で、8歳のジューは「珠」。両親は息子や娘に中国語に因んで名づけた。

彼らの通う学校の「授業は、午前中はフランス語で午後は中国語、夕方はクメール語になる」。「わが家では、夜になると年下の子供たちがキッチンに集まって中国語の勉強をする」。著者は下から2番目で女の子。「父が私を抱き、中国の古い民話で笑わせてくれた」。両親は子供を飽くまでも中国人として育てようとしていたようだ。おそらく著者一家のウンという姓は漢字で「呉」と綴るに違いない。

 こんな一家を悲劇が襲ったのが1975年7月だった。

長い間、ジャングルを拠点に革命闘争を繰り広げてきたオンカー(=ポル・ポト軍)がプノンペンに入城してきたのだ。親米のロン・ノル政権を血祭りに上げ国政を掌握した彼らによって、一家もトラックに乗せられる。移送先は農村だ。「『殺害がはじまったんだ』と、父は山道を歩きながら兄さんたちに話している」

 「ベトナム人、中国人、他の少数民族は、人種的に堕落しているグループ」と断罪するオンカーは、「民主カンプチアを、カンボジアがタイ、ラオス、南ベトナムにまで領土を広げていた大きな王国だったかつての栄光の時代に戻したがっているのだそうだ。オンカーは、カンボジア人の手によってこそ、これが達成できると言っている」。そのオンカーは中国共産党からの絶大な支援を受けていた。

そこで著者は兄に「中国がオンカーを助けているんだとしたら、なんで私たち中国系がこんなにいじめられるのよ?」と尋ねる。幼い著者の疑問に「父は、オンカーは民族浄化の考えにとりつかれていると言う」。「母のクメール語には中国語の訛りが混じるため、用心しなければならない。父は母が、カンボジアから害毒のもとである外国人を排除しようとしている兵士の標的になるのを恐れてい」たが、程なく、それは現実となる。

 先ず書名が示しているように「最初に父が殺された」のだ。次の生贄は母だった。オンカーの兵士を前に「母の目は希望で大きくなり、動悸は恐怖で激しくなる。〔中略〕突然、ライフル銃の音が響き〔中略〕母はすでに息絶えている。母の頭を抱えながら、(末弟で3歳の)ギークが息ができなくなるまで悲鳴をあげつづける。兵士がライフルを持ち上げ、数秒後、ギークもまた静かになる」。これが民族解放闘争に血腥い現実だった。《QED》