【知道中国 2757回】                      二四・十・仲九

  ――“もう一つの中国”への旅(旅9)

どうやら、この手の胡散臭いカラクリは、彼らの社会に一般的に見られるものかもしれない。いや、表と裏の社会のつながりは時代を越えて万国共通だろう。だが、それにしても彼らの場合、アッケラカンと露骨に過ぎるようにも思える。これもまた「利用価値」といった視点で捉えているからに違いない。

数年前までポル・ポト派の拠点だったポイペトの街も、ひとたび戦火が収まり華人が舞い戻ったら、知らず覚らずのうちに変容してしまうということだろうか。しかも彼ら胡散臭い人士は、プノンペンの政界枢要に通じているだけでなく、香港やら台湾、はては中国の裏社会とも結ばれているらしいというのだから、始末が悪いことこのうえなし、である。

そういえば90年代初頭からの10数年の間、カンボジアは香港や台湾のみならず、中国の指名手配犯の有力な逃亡先といわれたものだ。はたして現在も、そうだと考えられるのだが、だとするなら、KIDで聞いた「10分の1の人口を占めれば、その街を華人が押さえる」との話は、まんざらホラ話と笑い飛ばしていられないだろう。

ポイペトのカジノ探訪から8、9年が過ぎた2013年の春、プノンペンからバスで9号公路をホーチミン市に向かったことがある。

同地はヴェトナム戦争、それに続くポル・ポト政権時のクメール民族主義に基づく失地回復を掲げたヴェトナムとの間の領土紛争、さらにポル・ポト派殲滅のためのヴェトナム軍のカンボジアへの侵攻――20世紀60年代から90年代初頭まで続いた激戦の地であった。

カンボジアとヴェトナムとを結ぶ国境関門は、カンボジア領がヴェトナムに鳥のクチバシのように大きく突き出ていることから「オウムのクチバシ」と呼ばれ、ヴェトナム戦争時は激戦地として知られたスバイリエン州のヴァベット(華人は「巴城」と表記)にある。

ヴェトナム側に入国すべくヴァベットに到着して驚いた。幹線道路の両側には、それまで過ぎてきた長閑な田園風景とは不釣り合いなほどに豪華なホテルが立ち並んでいた。しかも巴域木牌園大酒店娯楽城、巴域冠賭城和酒店、新世界娯楽城大酒店など漢字の名前の大きなカンバンが麗々しく掲げられているではないか。

聞いてみると全部で12軒。そのすべてがカジノ(漢字で「娯楽城」「賭城」と表記)を併設、いやカジノがホテルを併設しているというべきだろう。客の殆どは、週末にカジノ目当てにヴェトナム南部からやってくる華人客とのこと。

西のポイペトはポル・ポト派の拠点であり、カンボジア内戦時の攻防の地だった。東のヴァベットにはアメリカ、カンボジア、ヴェトナムの3国の兵士たちの血が染み込んでいる。カンボジアの現代史を象徴する東西の2つの国境の街も、戦乱が収束するや、いつしかカジノの街へと変貌を遂げていた。しかもカジノ営業者も、一獲千金の夢を追って遊ぶ客も共に国境を跨いで広がる華人社会から、とは。やはり、一筋縄ではいかない方々だ。

じつはプノンペンを離れ9号公路を進むに従って目につくようになったのが、広大な稲作地帯の所々に台湾資本によって造成された工業団地だった。そこには、すでに操業している工場もあれば、建設中の工場も見られた。ここで作った主にアパレル関連商品は、カンボジアの主要港であるシハヌークビル経由より、ヴェトナムのホーチミン港を使った方が遙かに安くて早く輸送できる。9号公路ではコンテナーを運ぶトレーラーが目立った。

ここで“有意義な蛇足”を。

2019年4月、ポイペトとアランヤプラテーとの間のレールが連結され、ポル・ポト政権崩壊に伴って運行停止状態にあった両国を結ぶ鉄道路線が45年ぶりに再開されている。1番列車にはタイのプラユット首相、カンボジアのフン・セン首相(共に当時)が乗り込み、“お約束”に従って両国の友好と交流再開を熱烈に祝っている。《QED》