【知道中国 2756回】                      二四・十・仲七

  ――“もう一つの中国”への旅(旅8)

国境のこちら側には重武装のタイ国軍兵士が等間隔に立ち、国境の側に正対して身構える。もちろん銃口は上に向けられているが、引き金には指が掛かっていた。国境の向こうからは、散発的に銃声も聞こえてくる。やはり、そこは戦場だった。

やがてタイ国軍司令部許可のカオイダン難民キャンプ通行証の期限が切れる。ホテルを引きあげ、バンコクに向って国道33号線を西に進むと、国境に向かってフルスピードで進むタイ国軍ジープに出くわす。昼というのにライトを点灯させ、その後ろには砂塵を挙げ道路を揺るがせて進む戦車が続く。もちろん、こちらは車を路肩に寄せる。戦車、装甲車、完全武装の兵士を満載した軍用トラック、そして殿はジープ。トラックにもジープにも迷彩塗装が施されていた。

サケオはバンコクへの帰路の途中に位置する。そのサケオ郊外に設置されたポル・ポト派専用の難民キャンプを幸運にも参観することができた。

厳重に警備されたキャンプの通用門を入ると、昨日まで通ったKIDとはどこか雰囲気が違った。敢えて形容するなら、淀んだ血の匂いが漂っていたような。

行き交う難民を見ると、背は低いが、がっちりとした体つき。太く逞しい腕。衣服からはみ出した張り切った肌は黒光り。鋭い眼光、潰れた片目、失われた手足。一目で傷ついたポル・ポト派兵士であることが見て取れる。「通常の食事が再開される」と、やはりヒトは「失った体重と活力をすばやく取り戻す」といった人体の構造は、ここでもKIDでも変りはないはずだ。

彼らは休養を取って体力が回復するや、ソッと難民キャンプを抜け出し、カルダモン山塊の軍事拠点に戻り、再び銃を取る。時折、キャンプ内の井戸の底に兵士らしき難民の死体が浮かんでいることがあるが、どうやらポル・ポト派に紛れ込んだ敵対派の兵士らしい、と国連職員が語ってくれた。

ポル・ポト派兵士にとって、ここは難民キャンプなどではなく、レッキとした体力回復施設であり、時に戦場とは地続きだったと思える。ここで「通常の食事が再開され」、「失った体重と活力をすばやく取り戻す」と、彼らは再び戦闘意欲を滾らせて戦場に舞い戻っていったわけだ。

以後は、やや先を急ぐことになるが、後日譚をいくつか。

それから4半世紀ほどが過ぎた2005年前後の8月、チョットしたセンチメンタル・ジャーニーと洒落てアランヤプラテートへ。だが、そこには往時の面影はなく、巨大な市場に商品は溢れ、広大な駐車場を埋めるようにバンコクからの観光バスが列をなしていた。

その日はタイ王妃誕生日。王妃の長寿を祝い、その日一日だけ国境関門が開放され、ポイペトへの往来が自由だった。人々の流れに沿って国境を越える。かつてポル・ポト派の拠点だった街に居並ぶカジノに、人々は吸い込まれて行く。数軒のカジノを覗くと、入り口に麗々しく掲げられた営業許可証には、例外なく漢字の名前が記されていた。

カジノ営業許可証の周囲の壁には、「××華僑學校名誉董事長某某」「××華人商会永遠名誉主席某某」などと記された証書が分不相応に豪華な額縁に納まって掛けられていた。もちろん、営業許可を得た人物と証書に記された「某某」は同一人である。

片方の手でカジノを手広く経営しながら、残る片方で社会的名士として振る舞い、裏と表の社会を“自由闊達”に行き来して影響力を肥大化させ、やがては政治的利権までを手中に収めてしまうという寸法だ。じつに恐れ入ったカラクリだと感心するばかり。そういえば、「魔都」と呼ばれていた時代の上海の裏社会を仕切っていた大親分の杜月笙(1888~1952年)も、表社会では心優しき大慈善事業家として振る舞っていたのだが。《QED》