【知道中国 2753回】 二四・十・仲一
――“もう一つの中国”への旅(旅5)
中国庶民の生き方と「縁」に関しては、昭和10年代の北京で日本人学者が実施した民間慣行調査報告には、次のように記されている。
「中国社会をその内面構造かの上からとれえてみれば、同族(血縁)や同郷(地縁)や、同学(学縁)や、同教(教縁)、同業(業縁)や、又、血縁の擬制というべき親分、子分、兄弟分関係などの諸結合など、大小いくつもの、又、幾種もの社会集団が重なりあっているのであって、人はそのうちの一つにかぎらず、そのいくつにも関係を持ってきた。人は生きて行くために、より多くその生命と財産とを守るために、血縁のような自然的結合関係にたよるのは勿論のこと、人為的な結合関係をできるだけ作って、つとめてこれをたよりにしようとする。中国の社会生活の仕組みは何事によらずこのような傾向をもっていた」(仁井田陞『中国の社会とギルド』岩波書店、1951年)
1980年のKIDで見せつけられた「縁」は中華人民共和国建国前の北京でも見られたわけだが、たぶん毛沢東時代を生き抜いたからこそ、対外開放後に再始動したに違いない。
たとえば日経新聞の村山宏は『中国・繁栄の裏側』(日本経済新聞社 2002年)で、次のように報じている。やや長文だが、敢えて引用しておきたい。
「北京市内から車で南西に二、三十分ほど進むと人々が“浙江村”(豊台区内)と呼ぶ、出稼ぎ者の街がある。長江下流域の南側にあたる浙江省の出身者が固まって寝泊まりしていることから、この名前がつけられた。浙江村に寄りつく人々は杭州、寧波のような浙江省の都会から来た商人もいるが、多くの住人は周辺の農村部から一家ごとに上京し、北京で商売をはじめた“にわか商人”だ。新中国成立前に中国の経済を牛耳った浙江財閥に代表されるように、この省の住民には商売の気風が脈々と受け継がれているのか、外の世界に飛び出し、中国各地で行商するものが今も多い。
浙江省は北東に進めば中国第一の都市、上海があり、工業もめざましく進歩しているような印象があるが、都会をほんの少し離れれば貧困の村々が点在する省だ。『都会で商売をして一旗揚げよう』と人々が次々に農村を後にする。浙江省の商人たちは競争が激しい杭州、上海を飛び越え、商業が未発達で、もうけの大きそうな首都の北京に流れ込んできたのだ。浙江村の男は絹など繊維産業の盛んな浙江各地から布を仕入れ、女がミシンで洋服に仕立てる。出来上がった洋服を男がまた売り買いする。浙江村には、こうしてできた格安の洋服が路上で売られている。村には自前の学校から理髪店、浙江料理の店まで生活に必要なものはなんでもある」
まさに浙江省の片田舎から北京に出てきた農民が北京で生きていけるのも、地縁であり業縁のネットワークが毛沢東時代を生き抜いて機能していればこそ、だろう。
ここ、ふと思い出したのが、柳田国男が昭和29(1954)年に何人かの弟子を誘って著わした『日本人』(ちくま学芸文庫、2024年)の次の一節である。
「日本では郷党、門閥は一つの実体をもつ社会である。県人会、同窓会なども単に友情をあたため、楽しい過去の思い出を語り合うだけの機会という以上の意味をもち、現に利用価値をもっている」
「郷党、同窓、親戚、職業仲間といったサブ・グループにおける義理、人情によって訓育され陶冶された人格は、包括社会においては党派的自己中心となり、社会道徳の欠如ともなる。他人をつき飛ばして仲間の利益をはかってやる。〔中略〕集団的利己心は露骨な個人的利己心に肩替りしてくる」
『日本人』が「党派的自己中心」で「社会道徳の欠如」と否定する「縁」を、中国人(⇒華僑・華人)は「利用価値」の側面から捉えてきたということか。《QED》