【知道中国 2752回】                      二四・十・初九

  ――“もう一つの中国”への旅(旅4)

KID での華人の姿に接し痛感したのは、戦闘的難民と呼ぶに相応しい難民馴れした生き方だった。おそらく彼らの体内には危機への対処方法が組み込まれているに違いない。彼らの口癖は「危機の機は商機の機」。やや大袈裟に表現するなら、KIDの中には虎視眈々と商機を伺う者の野望が行き交い、そして渦を巻いていた。活字によって記されたのではなく、いや活字では語り尽くせない生身の華人の生活文化(生き方)に接した瞬間だったと思う。やはり、こういった貴重な体験は足で稼がないと得られるものではないだろう。

難民キャンプ通い2日目だったか3日目であったか。おそらく中国語を話す日本人がキャンプ内を何やらほっつき歩いていることが口コミで伝わったのだろう。前日と同じようにキャンプ内をブラブラしていると、誰かに監視されているような気配を感じた。

不思議な思いに駆られ立ち止まると、ニッパヤシ小屋の角から17、8歳の女の子が走り寄って来て、いまは見かけることもなくなってしまった航空郵便用の封筒を差し出し、「キャンプの外に出た時に投函をお願いします。カネがないので申し訳ありませんが、切手代を立て替えて下さい。お願いします」と、申し訳なさそうに声を掛けてきた。

「貧乏学生でも切手代ぐらいは立て替えることができますが、アナタの手紙の内容によっては厄介なことに巻き込まれないとも限らない。ですから、ここで文面を確認してもいいですか。数日後にはバンコクに戻りますから、手紙の内容に納得できたら投函しますが」と応ずると、「読んでもらっても構いません」との返事である。

ザラ紙に日本風に表現するなら金釘書体で、こんな内容が記されていた。

「おじさん、お元気ですか。やっとカンボジアを逃れ、いま私はタイ東部のカオイダン難民キャンプにいます。おじさんが私との血縁関係を証明し、今後の生活保障を申し出てくれたら、ここに付設されている国連難民高等弁務官事務所がおじさんの許への出国を認めてくれます。どうかおじさん、大至急、私のことを認めてください。飛行機代を立て替えて、この難民キャンプから私を救い出してください。お願いだから、助けてください」

手紙の宛先は、カンボジアにとっては旧宗主国に当たるフランスの地方都市。そこで彼女に尋ねると、おじさん一家はポル・ポト政権成立前にプノンペンから血縁を頼ってフランスに移った。いまでは雑貨屋を経営し、それなりの資産を蓄え生活は安定している。一族の遠い祖先は広東省の潮州地方から19世紀末期にヴェトナム経由でカンボジアに渡ったと聞いている。ということは、広東省潮州からヴェトナムへ。それからプノンペンを経由してフランスへ。彼女の一族は一世紀ほどの時間を掛けて移動を繰り返してきたわけだ。

口コミの威力か。その後も何人かから宛先がフランス、オーストラリア、アメリカなどの航空郵便を渡された。もちろん数日後に戻ったバンコクで切手を貼って投函しておいた。

さて我が細やかな好奇心と善意によって、彼らの中の何人が晴れて難民キャンプを抜け出し、フランスやオーストラリア、あるいはアメリカの親族の許に辿り着き、新しい生活を始めることができただろうか。ヒョッとして戦火の消えたカンボジアに舞い戻って、生活再建に励んだ者もいたかもしれない。

彼らは一般に三縁(地縁・血縁・業縁)を軸にして相互扶助の仕組みを維持し、地縁(同郷=同一方言)、血縁(同姓)、業縁(同業)によってヒトとヒトのネットワークを組織化し、それらを複雑・重層的に組み合わせることによって、異郷においても生き抜いてきた。その生きた姿が考衣蘭華人難民営弁事処となり、あるいは異国の血縁に支援を求める姿となって、目の前に立ち現れたわけだから、これが驚かずにはいられないではないか。やや大袈裟に表現するなら、まさに感動モノの体験である。百聞は、いや百読は一見に如かず。それにしても「縁」をテコにした生活の仕組みには“感服”するしかない。《QED》