【知道中国 2751回】                      二四・十・初七

  ――“もう一つの中国”への旅(旅3)

ハテ、なんだろう。なにはともあれ、その男の後についていくことにした。

カオイダン・ヒルに向かって10分ほど歩くと、目の前に「考衣蘭華人難民営弁事処(カオイダン華人難民キャンプ事務所)」と漢字看板の掛かる大ぶりのニッパヤシ小屋の前に出た。すると、中から数人が飛び出してくる。ここに収容されている1万4千人ほどを数える華人難民を束ね、自己防衛と相互扶助を進めるための自治的組織であり、ここでの窮状を外部に伝えてくれとの要望だった。なお「考衣蘭」はカオイダンの漢字表記。

弁事処はキャンプの最も外れ。裏手に張られている有刺鉄線の向こう側に、数人のワケのありそうな佇まいの男が立っていた。すると、こちら側から難民が歩み寄り、有刺鉄線越しに何やら話し合っている。弁事処の男の説明に拠れば、逃避行の際に難民が身に着けた金製のネックレスやブレスレットをタイのバーツに交換しているとこのことだ。

つまり彼らは紙幣なんぞ端っから信用しない。政府が崩壊し、権力が雲散霧消したら紙幣は紙切れ以下だ。事実、KIDでは1975年にポル・ポト派の攻撃で崩壊したロン・ノル政権時の最高額紙幣(500リエルだったと記憶する)を、子ども達がオモチャにして遊んでいた。

その点、ネックレスやブレスレットは装飾品ではなく、レッキとした、しかも持ち運び可能で管理が容易な財産である。爪に火を点すようにして稼いだカネで金製品を買い、カネが貯まったら、より高価な金製品を。それをシッカリと身に着けておきさえすれば、強奪される危険性は低い。いつ、どんな環境に置かれようとも、身の回りでどのような事態が起ろうとも、それは現金に交換できる。生き抜くために現金化されるのだ。

彼らは打ちひしがれ、見るからに無気力と悲哀を感じさせるカンボジア人難民とは明らかに違う。敢えて「戦闘的難民」と形容したいほどだ。当時、ポル・ポト政権下で過酷な生活を強いられた女性は極度の栄養失調に陥り妊娠能力は極端に低下し、クメール民族は絶滅の危機に瀕していると、日本のメディアが報じていた。だから難民キャンプで多くの妊婦を目にし、驚いた。まさに百聞は一見に如かず。弁事処の幹部に尋ねると、「人間はバカな動物で、一定の休養と栄養で体力が回復さえすれば、妊娠能力は旧に復すもの」と。

その時は、まさか、と首を傾げたが、最近『人体大全』(ビル・ブライソン、新潮文庫、2024年)を目にして、改めて弁事処の幹部の説に納得した。ヒトは「食物の過剰ではなく不足という危険に対処するように進化してきた」。そして「通常の食事が再開される」と、ヒトは「失った体重と活力をすばやく取り戻す」と、同書は教えてくれる。

時間が前後するが、話を弁事処幹部に戻すと、彼は「クメールの男が我が方の女性を襲う危険性があるから我われは自警団を組織し自分たちの居住区を守っている」と続けた。

カメラを持った男が、この難民キャンプの住民は14万人余で、その10分の1程度が華人だ。世界中、どんな街でも住民の10分の1程度を華人が占めれば、我われ華人はその街を押さえることが出来ると語ってくれた。たしかに雑然として人が犇めきあっているカンボジア人難民居住区とは対照的に、整然と組織化された華人難民居住地区を見せつけけられれば、彼の話に納得せざるをえない。

弁事処を離れる際、記念写真でもと携帯していたバカチョン・カメラ(懐かしい響きだ)を取り出す。すると最初に声を掛けてきた彼が、ならば私のカメラで、とフルオート・カメラを構えた。明日にでもなったら、「日本の友人、我が弁事処を訪問」などとキャプション入りで弁事処の掲示板に貼り出されるだろう。難民キャンプでの公報(=情報)活動を見越し、逃避行中もカメラを手放さなかったとしたら、やはり頭が下がりマス。

ニッパヤシ葺きの店舗も華人難民居住区に集中していた。改めて“商店街”を見渡せば、そこは難民キャンプのなかのチャイナタウンとしか形容のしようがなかった。《QED》