【知道中国 2740回】                      二四・九・仲二

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習406)

その結果、こんな考えが提言されることになる。

「伝統的な華僑・華人研究においては、『重漢軽少(漢族を重視し少数民族を軽視する)』の習慣が存在した。主な研究対象が漢族の華僑・華人であったことから、『漢族の華僑・華人が全ての華僑・華人の代表である』との印象を与えてきた。そこで本書は『重漢軽少』の伝統手法を打ち破り、少数民族の華僑・華人、殊に政治的に高度に敏感な海外『逃亡藏人』も研究範囲に加えんとするものである」

共産党統治はチベット文化――チベット人(蔵人)としての矜持と振る舞い――を破壊する文化的ジェノザイドを常態化させているがゆえに、その蛮行に抗い、故郷を離れ海外に生きる道を求めざるを得なくなったチベット人を「逃亡蔵人」と呼び捨てながらも「少数民族の華僑・華人」と位置づけ、飽くまでも中華民族の仲間として取り扱おうとする。つまり、これまでの「重漢軽少」を“革命的”に転換させ、新たな「漢少并重(漢族と少数民族を共に重視する)」の路線を歩もう、というわけだ。

この本に拠れば「華僑・華人は漢族だけではない」。つまり漢族以外の少数民族でも華僑・華人として捉えるべし、となる。加えて「海外の『逃亡藏人』も研究範囲に加えんとする」という新たな視点を提起する理由は、いったい何なのか。

やはり「逃亡藏人」までをも敢えて華僑・華人の範疇に取り込もうとするには、それなりの意図があるはずだ。こういった研究が国家プロジェクトに認定されているわけだから、常識的には共産党政権からの強い政治的要因・要請があったと考えるのが常識というもの。ならば、やはり共産党政権版の新たな漢化策に他ならない。

どうやらそこには、中国におけるこれからの華僑・華人研究は、これまで中国国内のみならず海外でも積み重ねられてきた歴史学、文化人類学、社会学、経済学、国際労働力移動といったレベルを超えた狙い、つまり極めて政治性の強い、華僑・華人をテコにした世界戦略が潜んでいるように思える。衣の下に隠されていたのは、やはり鎧でしかなかった。

この本は「我が国の現行法律に従」って、「華僑は国外在住の中国公民(国籍保持者)であり、華人あるいは外籍華人(外国籍華人)は元中国公民の外国国籍保持者及びその外国籍後裔である」と定義づける。

ここで素朴な疑問を持つ。「中国公民」とは、いったい、どのような存在を指すのか。華僑であれ華人であれ、これまではその源を辿れば民族的ルーツは漢族だと信じ込んでいた。だが今後、少なくとも習近平政権が続く限り、これまでの華僑・華人観は通用しなくなると考えておくのがよさそうだ。

「元」であろうが「現」であろうが中国公民が華僑・華人の基準となるなら、過去に中国公民であった場合は、現在の居住地、法的・政治的立場、思想信条などがどうあれ、“自動的”に華僑・華人の網を掛けられてしまう。敢えて繰り返す。自動的に、だ。その場合、おそらく十中八九以上の割合で個人的事情は考慮されないに違いない。

新しい華僑・華人研究の“正当性”を補強するため、この本ではダライ・ラマ14世に対する周恩来、鄧小平、温家宝など歴代の政治指導者による発言を援用しながら、ダライ・ラマ14世も華僑・華人であると主張(強弁)する。

共産党政権すれば「逃亡藏人」の象徴的立場にあれ、ダライ・ラマ14世が“前非”を認め、悔い改めて華僑・華人としての立場に立つ、つまり「中国公民」であったことを認めるなら、チベット独立運動指導者としてではなく、海外在住中国公民の代表として遇するということだろう。だが、それにしても身勝手が過ぎる暴論だ。とはいえ暴論がド正論として罷り通ってしまうところが、共産党政権の共産党政権たる由縁に違いない。《QED》