【知道中国 2736回】                      二四・八・念五

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習402)

漢化の過程は「黄河と長江の流域に広がり、後に東西南北に向かって『遷徙(いどう)』し広大な中国の大地を覆うこととなった」と進んだ後、中国大陸を飛び出し「遠く北アジア、中央アジア、西アジア、東欧、北欧、バルカン半島、東南アジア、南アジア、南洋諸島、南北アメリカに及び、近代社会に入って華人が全世界に分布するようになった。これは長い歴史を持つどの民族もなしえないことである」となる。

さらにアーリアン系以外の全ての民族は漢族系の血が混じっているとも主張するのだが、不思議なことに肝心の嚇胥氏の出自に関しては言及がみられない。となると『炎黄源流史』が漢族の始祖母と見なす嚇胥(=華胥)氏も、『中国の社会』が記すように「中国西北部の黄土高原で、先史時代の霞のなかから現われた」と見なすことができそうだ。

こうまで熱く説かれると、鼻白む思いに駆られつつ、「人類は皆、兄弟」ならぬ、「人類は皆、漢族」と口にしたくもなってしまう。決してヤケッパチになっているわけだはない。

ここで若干、いや相当に脇道に逸れるが、「人類は皆、漢族」の一例を示しておきたい。

中国に卯という姓の一族がいる。始祖は尭帝の時代に水を治めた官吏である共工とも、舜帝の治世に百工の事を司った役人ともいわれる。その末裔が「卯」に「木」へんを付けて、いつしか柳姓を名乗るようになった。

柳一族は住んだ場所を自らに因んだ地名で呼んだとのこと。当初は山西省の夏県東南15里にある柳山や柳谷に住んでいたが、やがて太原の柳子峪を経て次第に東西南北の各方向に遷徙していった。中国全土に存在する柳の字を冠した地名の場所は、この一族が遷徒していって定着した地点ということになる。そして北に遷徒した柳族から枝分かれした一群が朝鮮半島を経て日本に向かった。『炎黄源流史』は“大胆不敵”にも次のように綴っているのだから、驚愕するしかない。

「現在の日本には柳、柳山、柳上、柳下、柳父、柳木、柳道、柳田、柳本、柳江、柳元、柳井、柳光、柳谷、柳岡、柳河、柳沼、柳淵、柳園、柳原、柳倉、柳浦、柳屋、柳亭、柳島、柳郷、柳見、柳崛、柳楽、柳通、柳野、柳場、柳葉、柳津、柳垂、柳冶、柳武、柳崎、柳堅、柳平、柳多、柳村、柳町、柳沢、柳幸など多くの姓がみられるが、その大多数は共工氏の血統に連なる柳一族の後裔である」

ここまで自信を込めて語られると、やはり唖然・慄然・騒然・呆然・・・。だが、これが正しいとするなら、ほとんど凡ての日本人の血統を遡った先には、必ずや漢族が待ち構えていることになってしまう。彼ら漢族は信じたいだろうが、我ら日本人としては悪い冗談としかいいようはない。いや、悪い冗談では済まされそうにない。

率直にいって、『炎黄源流史』は身勝手・出鱈目・自己陶酔の極致であり、実に恐ろしくも滑稽すぎる暴論、いやトンデモ本というべきだろう。だが、それが麗々しくも「中華民族源流史叢書」と銘打って出版されているところに、歴史を曲解・捏造してまで強弁する、つまり「歴史を権力の僕」と見なす彼らの身勝手さ、故なき民族優越主義感情が現われているように思える。

ものはツィでというから、もう少し脇道に逸れてみたい。

『炎黄源流史』の超過激な「人類は皆、漢族」といった考えに真っ向から異を唱えるのが、「1960年代半ばに香港の伝統的な貧困農家に生まれた」と出自を語る鐘祖康である。

 彼は毛沢東の死後において最初の民主化運動となった「北京の春」を主導した1人であった魏京生逮捕をキッカケに、中国における恐怖政治に深い関心を抱き中国観察をはじめた。時に14歳。香港中文大学卒業後に就職したが、香港の教師や公務員などが政府から与えられる高い給料に篭絡され社会の不正義に沈黙していることに慄然とする。《QED》