【知道中国 2735回】                      二四・八・念三

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習401)

どうやら『中国の社会』は漢族の起源は科学的に明確に捉えられてはいないとの視点を持つに到ったからこそ、敢えて「霞のなかから現れる」と曖昧に表現することによって正確さを現わそうとしたと理解できるが、これこそ客観的で誠実な視点と評価できる。

これに対し、周、殷、商と時代を遡れば遡るほどに聖人による理想の政治が行なわれ、夢のような社会が実現していたと記す古典から中国を理解することに専ら意を注いできた日本では、漢字に翻弄され、文字表現に幻惑され、中国社会の姿を妄想し、誤解・曲解してしまった。敢えて虚像を実像と信じ切って(信じ込まされて)きた、と言っておきたい。

その辺りの事情を「明治最終の年月」に山海関、天津、北京、漢口・武昌・長沙に遊び、揚子江を下り、南京・蘇州・杭州・上海へと足を運んだ川田鐵彌は、『支那風韻記』(大倉書房 大正元年)で、「論語の眞髓は、全く日本に傳はつて、支那には、其の實が洵に乏しい」。「書物など讀むにも、用心して之を見ないと」「支那人の書いた書物に、讀まれて仕舞ふようになる」。「元來正直な日本人など」が「日本化された漢學で、直に支那を早合點」してしまう。「四書を始めとして、何れの書も、意味をアベコベにとると、支那人の性情が、自ら分る」と説いた。その通り。まさに盲信(しんず)る者は救われないのだ。

表意文字である漢字――言葉が本来的に持つオトという最重要の働きを抜きにしてイミのみが容易に伝わってしまう――が玄界灘を越えてもたらされたことで『論語』『孟子』『中庸』などが日本に持ち込まれ、やがて「日本化された漢學」が生まれ、それによって「直に支那を早合點」し、修正されないままに現在に立ち至っているように思える。であればこそ、“曖昧さの持つ正確さ”などといった発想に思い至るわけがないだろう。

こう考えれば、やはり日本人は漢字を知ってしまった“不幸”をジックリと改めて嚙み締め、その弊害にも思いを致すべきだろう。

ところで漢族は伝説上の皇帝である炎帝・黄帝を民族の始祖と崇め、自らの体内を流れる血が炎帝と黄帝の両皇帝に繋がるものと主張し、ゆえに自らを「炎黄子孫」と称する。鄧小平による対外開放以後、この表現が俄に多用されるようになったが、その背景に世界各地の華僑・華人を含む漢族系の人々を一体化して捉えようとする“政治的狙い”が透けて見える。漢族、中国人、華僑・華人から中華民族へ。何処までも政治の影が付き纏う。

黄帝を祀る黄帝陵は遙か遠い昔(BM=Before Mao)に黄土高原の一角に築かれ、共産党政権成立を起点に現在に至るまで(AM=After Mao)も手厚く保護されてきた。対外開放が招いた経済成長と共に各種の巨大施設が増設され、海外在住の華僑・華人の参拝者を集め、炎黄子孫団結を象徴する一大メッカと化している。もちろん、台湾からも多くの観光客を呼び寄せ、共産党政権による統一戦線工作の国際拠点の感を呈しているのだが。

さて900頁を優に超える『炎黄源流史』に拠れば、漢族は有史以来一貫して農業を柱として発展してきた。伝説時代の神農氏が起源となって原始農業が起こり、やがて新石器時代の農業に繋がり、人民は鼓腹撃壌の時代を迎え、黄河と長江流域に古代文明の華が開いた。それゆえに炎帝神農氏と、「炎帝之兄」で同じ母親から生まれ混乱の世を平定した黄帝軒轅氏こそが民族の始祖であることを、各地で発見された洞窟に刻まれた絵画や文字(?)、甲骨文、さらにはあまたの古典的史書などの片言隻語のような記述を寄せ集め実証している。その記述は博引傍証でもあり、我田引水でもあり。

『炎黄源流史』は嚇胥(=華胥)氏が漢族の始祖母で、その末裔が最初の強大な奴隷制王朝の夏朝を築き、夏朝の主要な2大氏族である神農氏と軒轅氏とが炎帝族と黄帝族とに発展し、時代の流れの中で数千の氏族に枝分かれし方国を形成したとした後に漢族の拡大を、つまり漢族が「遅れた地域」を漢化していった過程を熱く説くのであった。《QED》