【知道中国 2734回】 二四・八・念一
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習400)
本論に移るが、著者の呂振羽は「中国民族民主革命段階において解決しなければならない主な国内問題は、土地問題と民族問題である」と熱く語り、「中国人種の起源」から説き起こし、こう主張している。
「漢族は世界における一大民族であり、過去の100年余りは弱体民族ではあった。だが人類の優秀な一部分であることは明々白々だ。中国民族が侵略者に対し善戦していたなら、侵略者による圧迫と痛苦はより善く取り除くことが出来たはず。これは疑いの余地のない真理だ。かくて漢族は中国民族の中で指導的位置を占めると共にその根幹であることもまた、紛うことなき事実である」
以後、「漢族は中国民族の中で指導的位置を占めると共にその根幹である」との視点に立って、個々の少数民族についての解説が続く。だが「内モンゴルは中国域内の遅れた地域である」との主張を目にするに及んで、ビックリ仰天。このリクツでは内モンゴルのみならず内モンゴルと同じような立場に置かれたウイグル、チベット、朝鮮族居住区、さらには全土の少数民族居住区は「中国国内の遅れた地域」となってしまうだろう。
どうやら「中国域内」は「進んだ地域」と「遅れた地域」に分かれ、前者に漢族が、後者に少数民族が居住している。中国とは中央の「進んだ地域」を「指導的位置」に在る漢族が占め、「遅れた地域」に少数民族が配され、少数民族は漢族による漢化の過程を経て中国民族に昇華(吸収)されて当然であり、中国史は漢化の拡大過程と同義となる。
博引旁証した数多の史資料を根拠に、少数民族を漢化することは漢族の生存空間拡大のための当然の行為であり、それが封建圧政に苦しむ少数民族を救う正義の闘いに通じるばかりか、漢族による中国民族拡大の歴史だとも主張する。ここまで来ると、行間に溢れる漢族至上主義イデオロギーに辟易させられること請け合いだ。
だが歴史を振り返ってみるならば、漢化とは言語から社会の仕組みまで、いわば少数民族の文化――《生きる形》《生きる姿》《生き方》――を根底から消し去り、結果として漢族の文化に強制的に置き換えることを意味してきたわけだから、漢族の側が正義だと自信を持って主張しようが、少数民族からするなら民族浄化の蛮行ということになるだろう。
こう考えると、現在の習近平政権が強く推し進める少数民族に対する漢語教育政策は、「漢族は中国民族の中で指導的位置を占めると共にその根幹である」との考えに基づく正しい政策となる。つまり共産党政権が少数民族を教育(訓致・善導)することで漢語(中国語)が身につくようになり、中国人の仲間入りすることで少数民族は「遅れた地域」から晴れて脱することができる、というカラクリとなるはずだ。
だとするなら中国とは、中国人とは、と問い質すことは歴史学の問題ではなく、極めて政治的な現実問題となり、歴史学は「権力の僕」としての役割を担うことになってしまう。
続いて『炎黄源流史』に移るが、900頁を優に超える圧倒的分量で熱く語られる漢族至上の主張に触れる前に、参考までに欧米における漢族観の一端を紹介しておきたい。
「多くの中国に住んでいる少数民族と区別される漢族は、中国西北部の黄土高原で、先史時代の霞のなかから現れる。〔中略〕紀元前一〇〇〇年には、漢族は現在の中国の領域の一〇パーセント程度に住んでいた。〔中略〕中国の一角から始まって、漢族は驚くべき活動力を示し、続く三〇〇〇年間ひたすら外に向かって広がり、数の上でも増えた。
その道筋でぶつかった他の民族の文化を吸収し続けた。この長期にわたる過程は、数千年間も持続し、今日においても漢族と漢文化がチベットと新疆に広がりつつあることから、この過程が今も進行していることが裏づけられる」(ロイド・E・イーストマン『中国の社会』平凡社 1994年)。日本人の一般的な漢族観とは、どこかが違う。《QED》