【知道中国 2732回】                      二四・八・仲五

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習398)

 

 なにを今さら黄宗羲、とは思う。だが、これを「天子個人の『大私』を天下の『公』であると言い立て」る「今の君主」に対する同じ民族の過去からの“諫言”と見なすなら、おそらく劉暁波(1955~2017年)が2008年に発した「○八憲章」(以下、「憲章」)は同時代人が抱いた強烈な違和感の発露であり根底的な批判と言えるに違いない。

もちろん憲章が劉暁波の頭上に2010年のノーベル平和賞を耀かせたわけだが、その一方で2017年の獄死につながったといえるはずだ。それというのも「主」の立場に立つなら、やはり「従」の側からの批判は断固として許してはならないとなるだろう。

改めて憲章を振り返ってみると、世界人権宣言60周年に当たる2008年12月10日、中国の知識人、人権活動家、法律家、学生、労働者、農民など92歳から22歳までの303人が署名して公表され、当時、内外に大きな反響を巻き起こしている。

当局による強い締め付けも撥ね除け、その後も署名者は増加の一途だった。漢字4千字ほどの憲章は、現在の中国を①人民共和国とはいうが実質的には共産党の天下である。②共産党政権が「政治・経済・社会の資源の全てを独占してきた」。③対外開放で確かに生活水準は上がったが、官僚の腐敗、人治の横行、人権の軽視、道徳の荒廃、社会の二極分化は止まらない。④経済は発展したが奇形的であり、自然環境と人文環境は破壊されるがままだ――かくて「現行体制の時代遅れは直ちに改めざるを得ない状態に立ち至っている」と激しく告発したのである。

憲章が掲げる憲法改正、三権分立、党防衛軍(=人民解放軍)の国軍化、人権保障、公職選挙、集会・結社・言論・信仰の自由、行財政・教育改革、社会保障、政治犯の名誉回復など改革のための諸提言がなされているが、それらは、かつて台湾民衆が国民党一党独裁体制に突きつけた要求と二重写しに見えてくる。

李登輝は「現行体制の時代遅れは直ちに改めざるを得ない状態に立ち至ってい」た状況下の1988年に総統に就任(~2000年)したのだ。

当時、台湾海峡を挟んで台湾では国民党が、大陸では共産党が、共に党国体制を柱にして党絶対のイデオロギーによる冷徹で理不尽極まりない人治が行われていた。敵には冷厳・峻厳、身内には大甘でズルズル・ユルユル。これを黄宗羲流に言い換えるなら、「天下の利害の権はすべて自分の手にある。天下の利益は全部自分のもの」「天子個人の『大私』を天下の『公』であると言い立てる」となるだろうか。

それもそうだろう。大陸時代以来、国民党の組織原理は共産党と同じで、共にレーニン式革命党を引き写しであった。国共両党は一卵性双生児的政党であり、共に党国体制を布いていた。つまり国民党にしても、先に引用した『レーニンの墓(上下)』(白水社 2024年)が指摘する「法の優越性を否定」し、「統治を超越し」、「政府を支配し国家の富を含めすべてを支配した組織であった」わけだ。

ところが台湾では、李登輝が党主席という強い立場を巧みに利用し国民党中枢に巣食っていた蔣介石以来の「あたまコンクリート」と揶揄されて久しかった頑迷固陋の超保守勢力を不退転の決意で排除し、国民党をフツーの政党に大変質させた。それが台湾における複数政党による政権交代への道を切り拓くこととなる。もちろん、李登輝を背後で支えた台湾民衆の熱烈な「声なき声」を忘れるわけにはいかないのだが。

劉暁波らの動きが内外から注目を集めた当時、内外メディアの大方は憲章を「中国における独裁終結を目指す」と好意的に伝えた。だが権力中枢が2つに、あるいは四分五裂し、内側から自壊への道を歩み出さない限り独裁権力の命脈を絶つことが至難であることは、古今東西の独裁権力崩壊の歴史が教えていることを忘れるべきではないだろう。《QED》