【知道中国 2731回】                      二四・八・仲三

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習397)

 

 鄧小平の発言を収めた『鄧小平文選 第二巻』(人民出版社 1994年)を開くと、対外開放に踏み切って2年ほどが過ぎた1980年8月18日、党と国家の指導幹部を前にして、鄧小平が次の発言をしたと記されている。

 「幹部らは職権乱用を恣にし、剰え一般民衆にも背を向け、偉そうに体裁を繕うことに時間と労力を尽くす。無駄話に耽り、専らに文字面に拘泥し現実に向き合おうとはせず、不必要な役職を乱造し、ノロマで無能で無責任で約束を守ることもできない。問題に生真面目に対処することなく、書類をたらい回しするだけ。挙げ句の果てに責任を他人に押し付け、幹部の特権のみを振りかざし、万事に亘って他人を責め立て、民主主義をネジ曲げ、上司から部下までを煙に巻いてしまう。気紛れの上に横暴で、横行するのはえこひいき。袖の下は当たり前のうえに、万事に亘って不正に手を染める」

 このように幹部の作風を叱責した9年後で、天安門事件から3ヶ月が過ぎた1989年9月4日、鄧小平は自宅に招致した党国体制の最上層を占める最高幹部に向かって、一連の事件処理を「民主化弾圧」と強く批判し経済制裁で対抗しようとする西側に対する対応方針を、「冷静観察(冷静に見極め)」「穏住陣脚(足場を固め)」「沈着応付(落ち着いて振る舞え)」の12文字に凝縮して教え諭した後、特に党中央政治局員に向かって、人民解放軍の統帥権を握る中央軍事委員会主席を江沢民に譲り、ほどなく一切の公職から離れ、一個の「老いさらばえた公民」として余生を送る決意を、こう披瀝したのだ。

 「共産主義のため、そして祖国の独立と統一と発展と改革のため、何十年も奮闘してきた古参党員として、また老いさらばえた公民として、我が生命は党と国家と一つである。引退後も、この二つに忠誠を尽くしていく所存だ。〔中略〕改革と開放はまだ始まったばかり。任は重く道は遠い。紆余曲折もある。だが、我々はあらゆる困難に勝利し、先達が切り開いた事業を後々の世まで発展させていくことは可能だと確信する」(『鄧小平文選 第三巻』(人民出版社 1994年)』

 だが事実が示すところ、鄧小平は「老いさらばえた公民」となることはなかった。一貫して「最高実力者」であり続け、「私の生命は党と国家と一つ」として振る舞い、また彼に引き立てられた江沢民指導部もまたそのように遇した(奉った?)わけだ。

 ここで唐突だが明末に生まれ陽明学系の学問を修め、明朝滅亡後は異民族である満洲族が打ち立てた清朝からの再三の要請をも固持して仕官せず、飽くまでも明朝の遺臣として野に留まり研究・講学・著述の日々を過ごした黄宗羲(1610~95年)を思い出した。

黄宗羲は畢生の著『明夷待訪録』の劈頭に「原君(君とは何か)」を置き、「古の君主」は「人の千倍万倍も苦労しながらも、自分は僅かな利益をも受けなかった」と、「君主」たる者の本来の振る舞い(至誠=ノブレス・オブリージ)を説いた後、こう続ける。

「ところが、後に君主となった者たちは、そうではない。天下の利害の権はすべて自分の手にある。天下の利益は全部自分のものにし、損害は全部他人におしつけてもさしつかえなし、と振る舞った。天下の人々には自分のことだけを考え、己の利益のみを企てることを許さない。天子個人の『大私』を天下の『公』であると言い立てる。最初のうちは気後れ気味だが、やがて当たり前になってしまう。天下を莫大な財産と見なし、子々孫々に伝えて永久に享有しようと謀る。漢の武帝が天下を取った後、『俺の作った財産は兄貴よりも多いだろう』と口にしたのは、利益を追い求める本心が思わず口に出てしまったもの。

 これは他でもない。古は天下が主で君主は従と考えていた。君主が一生を賭して経営に精励したのは、すべて天下のため。ところが今では君主が主で天下が従と考えるようになってしまった」。さて、ここで「天下」を共産党に入れ替えたらどうだろうか。《QED》