【知道中国 2730回】                      二四・八・十

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習396)

 

 天安門事件に関わった容疑で「反革命宣伝煽動罪で懲役四年」の刑に服した廖亦武は、天安門広場で民主化のスターとして振る舞った――いや正確に表現するなら、西側メディアが“民主化のジャンヌダルク”とばかりに持ち上げた――柴玲を「芸能界の有名人気取りだった」と苦々しく吐き捨てる一方、民主化の論陣を張った知識人は「肝心な時にチェーンが外れて動けなくなる自転車みたい」であり、当局による「大虐殺」が始まったら「脱兎のごとく走り去った」「国内外の六四エリート」と、嘲笑気味に斬り捨てる。

 「共産党は本当にあっという間に人を殺す」の短い文章から噴出するのは、経験者であるからこその憤怒、それに嘆息と恐怖だ。

 ここで参考までに、文革当時、我が国の現代中国研究者やチャイナウォッチャー、さらにはジャーナリストなどを網羅して編まれた『現代中国事典』(講談社現代新書 昭和47年)の「中国共産党」の項(執筆は岩村三千夫)の最も重要と思われる部分を示しておきたい。因みに編集委員は安藤彦太郎、菅沼正久、野村浩一、斉藤秋男、高市恵之助、波多野宏一の6人で、代表はもちろん安藤であった。

「(共産党の)党規約はまた、多くの条項で、党が常に大衆と密接に結びつき、大衆の意見と要求をきく組織であることを、『事あるごとに大衆と相談』し、また『批判と自己批判を勇敢におこなう』ことを党員は必ず実行しなければならない、としている。この徹底した大衆路線の作風は、中国共産党がその五○年のたたかいを通じて築きあげた貴重な伝統でもある」                                                                                                               、

 文革終結は今から半世紀ほどの昔であり、21世紀に入って四半世紀が過ぎようとしている現時点でも、「その五○年のたたかいを通じて築きあげた貴重な伝統」は依然として守られているのか。つらつら振り返ってみるに、守られているとは、とても思えない。ならば「この徹底した大衆路線の作風」は、どこに消え去ったのだ、などと半畳を入れたところで詮ないことは重々承知ではある。だが、いつ、どのような経緯で「本当にあっという間に人を殺す」ような凶悪組織に大変貌したのか。いや最初から、そうだった・・・のか。

 ここで以前言及しておいた『レーニンの墓(上下)』(白水社 2024年)から、気になる指摘を拾っておきたい。

 「抽象的理念が狂信者を生み、〔中略〕ボリシェビズムの空想的理想主義と凶暴性がこの全体主義国家を生んだ」

 「ボリシェビキの基本原則は、法の優越性を否定することだった。〔中略〕プロレタリアート独裁の原則は、『法による独裁を受けない』のである」

 「いわゆるボルシェビキの党は無論、政党ではなく全く新しい型の組織であり、それが政党の特徴をいくつか備えていたのである。その構造は前例がなく、統治を超越しており、政府を支配し国家の富を含めすべてを支配した組織であった。それは外部からのいかなるコントロールも超越していた。語のいかなる意味においても、それは政治的『党』でもなければ、任意の社会組織でもなかった。・・・この全く新しい型の政治組織は・・・ムッソリーニのファシスト党とヒトラーのナチ党、および欧州に始まって世界に広がり、一党支配体制を打ち立てた全体主義的の無数のいわゆる政党にとっての前例であった。・・・その活動の全歳月において、共産党は法ないし憲法に従う責任があると考えたことはなかった。共産党は一貫して、自らの意志と目標が決定的要素であると考えていた。党は一貫して意のままに、すなわち憲法に従わずに行動したのである」

 『レーニンの墓』に照らすなら、『現代中国事典』の「この徹底した大衆路線の作風」などという“お花畑”が過ぎる解説には、呆れ果て絶句し立ち尽くすしかない。《QED》