【知道中国 2729回】                      二四・八・初八

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習395)

 

経済に関する限り原則自由だが、共産党政権の振る舞いに対する批判・不満の類は一言半句も許さない。もちろん反政府的色彩を帯びた行動なんぞ兆候が現われる以前の段階で一気に叩き潰す――鄧小平が、このような働きを持つ“緊箍児”を国民の頭に嵌めた最大の狙いは、やはり共産党独裁の維持・強化にあったからに違いない。

一般に西側では市場経済の発展と民主化は一体化している。市場経済の発展の大前提は政治の民主化であり、民主化なき社会に市場経済発展なし、と信じられてきた。だが鄧小平が掲げた社会主義市場経済体制は、政治の民主化がなされなくても経済発展は可能であること。いや天安門事件以後の中国経済の驀進状況から、政治を民主化しない方が経済は発展するとの考えが一定の説得力を持つことを内外に示してしまった。

これを言い換えるなら、共産党が独占する権力をタテにして市場を恣意的に操作し、結果として共産党権力が一層の肥大化を果たしてしまう。権力独占の肥大化と市場の拡大とが相乗効果をみせながら、内外に向かって政治的、経済的、軍事的影響力を格段に高めていく。まさにアダム・スミスの説いた「見えざる手」なんぞは歯牙にも掛けない形で、鄧小平が推し進めたのが「市場レーニン主義」だったに違いない。

おそらく鄧小平式「市場レーニン主義」を増幅させたのが、1980年代から90年代にかけてアメリカが地球規模で推し進めたグローバリゼーション(中国では「全球化」と表現)ではなかったか。いわばグローバリゼーションの波の最大の受益者が鄧小平式「市場レーニン主義」、つまり中国共産党だったわけだ。

ところが、である。その後の経緯をみるに、中国人自身も鄧小平式「市場レーニン主義」の底意を誤解していた、いや舐めて掛かっていたフシが十分に窺えるのだ。

知識人の世界では、天安門事件から現在まで、「急進仇(讐)中共派」からはじまり、「急進自由派」「温和自由派」「憲政社会派」「党内民主派」「新権威主義派」「新左派」「毛沢東左派」、さらには「新儒派」「天下主義」「国家主義派」まで、多種多様な意匠を凝らした思想潮流が展開され、華やかに激しく論戦が繰り広げられてきた。

たとえばコロンビア大学の張博樹のいくつかの著作(『従五四到六四:20世紀中国専政主義批判』晨鐘書局2008年/『改変中国:六四以来的中国政治思潮』溯源書屋 2015年/『紅色帝国的邏輯:21世紀的中国与世界』秀威出版公司 2019年)を読んでも、活発な議論が続いていることは認めるが、内容が精緻に過ぎ、あるいは議論のための議論の色合いが強く、論戦のための論駁に終始しがちで、現実に社会を動かしているとも思えない。

率直に言って、これでは「市場レーニン主義」の猛威を前にしては、とても勝利は覚束ない。その辺の状況を、天安門事件を「六四大虐殺」と糾弾し、自らを「六四大虐殺以前、私は伝統に反する詩人だった」と規定する廖亦武は『銃弾とアヘン』(白水社 2019年)で怒りと諦めとを交錯させながら、次のように綴っている。

「いつまでも毛沢東の亡霊がつきまとう限り、鄧小平の強力な支配を取り除かない限り、共産党の統治である限り、反抗の帰結はすなわち流血なのだ」

 「学生や文人が、瞬き一つせずに人を殺せる熟練した政治屋と争ってどうして勝てる?」

 「絶対多数の中国人は、一生騙されて、声を呑み込んで我慢し、妻を寝取られた男みたいに暮らしている」

「(刑期を終えた後の不遇を)おれも恨まないよ。こういうことになったのはほかでもなく、改革開放で利益と欲に目がくらみ、魂を売って道義を忘れ、みんなが腐敗に憧れる新時代に乗った中国人のおれたちなんだもの」 《QED》