【知道中国 2728回】                      二四・八・初五

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習394)

 

林語堂はギリシャ神話を例に引いて、老獪について次のようにも語っている。

「ギリシャ神話にある『若いイカロスは高く飛びすぎ、蠟の翼が太陽の熱で溶け、海に墜ちて死んだが、父のダイクロスは低く飛んだので、無事家に帰り着くことができた』という物語も決してほんの気まぐれからそうしたのではなく、老獪に対する寓意を示すものである。人間も年齢の積み重ねとともに低く飛ぶ能力を身につけるようになる。そして理想主義は冷静で穏健な常識や金銭欲によって骨抜きにされるのである。

このようにして現実主義は老人の特徴となり、理想主義は若者の特徴となるのである」

それにしても「理想主義は冷静で穏健な常識や金銭欲によって骨抜きにされるのである」とは、「理想主義」が醸し出す若者特有の青臭さや無定見さはもちろんだが、その裏側に潜んでいる過剰な功名心、胡散臭さ、それに危うさを鋭く突いた言葉ではある。

ここで鄧小平は共産主義者ではなく共産党主義者であった、と考えてみたい。彼が求めたのは共産主義という理想主義なんぞではなく、極めて精緻に組み立てられた冷徹な規律で裏打ちされた完全無比の権力掌握システムとしての共産党、つまり林語堂の説く「老人の特徴」である「現実主義」ではなかったか。

かくて“猜疑心の塊”ともいえる毛沢東すら手玉に取ったような鄧小平独特の老獪な現実主義が存分に発揮され、共産党批判という最後の一線を侵さない限り、カネ儲けのためにはどのような算段も逸脱も許された。当時、盛んに喧伝された「先富論」とは、あるいは鄧小平式の「治国平天下」の目眩ましであったのかもしれない。このような思潮に、対外開放に踏み切った1970年代末から1989年の天安門事件までの10年ほどの間、中国内外は包まれていたように思える。であればこそ政治の改革、社会の近代化(=民主化)、経済の発展を踏まえた中国の文明化を求める声が高まったに違いない。

だが鄧小平式の「治国平天下」には裏があった。つまり共産党批判は微塵も許されない。誰の、どのような言動であれ、共産党批判に踏み込んだ瞬間、躊躇せず、直ちに、断固とした対応に踏み切ることを厭わない。

鄧小平が絶体に譲れなかった最後の一線が党国体制に裏打ちされた権力そのものであったとしても、権力ポストに付随する役職名ではなかったはず。だからこそ鄧小平党は党国体制の最高位を表す共産党の総書記、あるいは書記長を名乗ることに拘りはしなかった。「現代化の総設計師」「最高実力者」といった曖昧模糊とした肩書きでもよかったわけだ。

おそらくアメリカを筆頭とする西側は鄧小平が対外的に示す友好ムード――まさに、それが鄧小平個人の「韜光養晦」――を見誤った。あるいは1989年の天安門事件は鄧小平が胸に秘めた「韜光養晦」という名の現実主義が、国内では若者が掲げ、海外では西側諸国が期待した民主化という「理想主義」を粉砕した瞬間だったように考えられる。

当然のように西側は猛反発し、経済制裁に打って出た。だが、おそらく鄧小平にとっては、そんな“敵対的行動”は織り込み済みであり、痛くも痒くもなかったに違いない。鄧小平は自らが掲げる「治国平天下」策の新たな担い手として、東南アジアを中心に海外に展開する華人企業家や香港、台湾の企業家に誘いの声を掛けた。

天安門事件が過ぎて1年ほどが経った1990年4月、北京に招いた世界有数の華人系企業集団のCP(正大)集団を率いる謝国民(タイ名:タニン・チョウラワノン)に向かって「海外には、祖国の発展を望む3000万人の愛国同胞がいる」と嘯く。

1992年2月、鄧小平は「南巡講話」をブチ上げ、「3000万人の愛国同胞」を巻き込み、対外開放を再始動させ一層の経済発展策に打って出た。この段階で、国民の頭に新たに鄧小平の品牌(ブランド)が刻印された“緊箍児”がガッチリと嵌められたのだ。《QED》