【知道中国 2722回】                      二四・七・念一

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習388)

 

独裁政権にとって一本の命綱が歴史観なら、残る一本は言葉(中国語)だろう。なぜなら言葉でしか思想を形作り、表現し、他に伝えることができないからだ。踏み込んで考えるなら、言葉は思想を伝える手段を超え、時には思想そのものとなる。いや、そうであるに違いない。

『毛主席語録』を読み進むほどにソンな気がしてくるのだが、やはり毛沢東の言葉でしか毛沢東思想を説き表すことはできそうにない。文革で殲滅された劉少奇の代表的著作といえば『論共産党員的修養(共産党員の修養を論ず)』が挙げられるが、劉少奇が自らの言葉で説こうとしたのは彼の思想であり、彼以外の誰の文体でもなければ、語彙でもない。

喩えるなら思想は人を動かすOS(基本ソフト)であり、教育とは共産党の意図に沿って振る舞う中国人の行動原理が書き込まれたOSを個々の国民の脳内にインストールする作業。だから共産党式中国語こそ党の思想を形成・保持・体現・伝達する道具であるはず。

ここからは共産党式中国語のなんたるかを、これまで挙げておいた実例を振り返りながら考えてみたい。

先ず取り上げたいのが、1953年9月に出版された初級中学中国語文法担当教員用参考書の『怎樣教學中國語法』(2338、39回/習4、5回/二二・三・初八、十)である。当時はまだ現在の中国で使われている簡体字は正式採用されてはいないから、この本では簡体字と繁体字が併用されている。

 文法解説の例文の形を借りているが、すでに毛沢東を称える多くの文章が効果的に排されている。教室で文法を教えながら毛沢東の“存在感”を生徒の頭の中にシッカリと刷り込もうとしたのだろう。いくつか例文を拾っておくと、

 「毛主席の健康こそ、我ら全国人民の幸福というものだ!」

 「毛主席はボクらに“民主”を授けて下さり、みんなはボクを委員に選んでくれた」

 「これこそ毛主席の指導の素晴らしさだ」

 「中国に毛主席が出現した」

 「毛主席はまるで身内のように打ち解けて語りかけてくれる。毛主席の温和で心を砕いた語り口を、私はずっと記憶する」

 「彼らは毛主席と握手した同志の手を羨まし気に握り、その時の様子を訊ねた」

 もちろん「毛主席、万歳!」の文字はシッカリと記されている。

つまり早くも1953年の段階で、文法学習においてすら柔らかい頭脳に「毛沢東」の三文字をシッカリと、消えることのないように刻みつけておくべしとの権力の強い意志が教室の内側で働いていたことになる。「白い紙にはなんでも描くことができる」とは蓋し毛沢東の名言(迷言?)だが、その通りの教育が実践されていたと考えられる。

『怎樣教學中國語法』が出版されたのは建国から4年が過ぎた1953年9月。当時の社会状況を振り返るに、共産党政権は朝鮮戦争(1950年6月~53年2月)の戦後処理、社会の各方面に潜む共産党反対勢力(国民党、地主、資本家など)の鎮圧・掃討、国家建設のための資源の不足など、早急に解決すべき難題を抱えていたのであった。

にもかかわらず1953年秋の段階で、すでに毛沢東は“慈悲深い全知全能の神”として教室に降臨していた。共産党政権が求めたのは旧時代の残滓に塗れた大人ではなく、「白い紙」の子どもたちだった。毛沢東を神と崇める生徒を学校で大量生産する一大事業――共産党式OSのインストール――は、すでに“堂々・粛々”と実行されていたわけだ。

次に見ておきたいのが、ニクソン米大統領訪中3ヶ月後の1972年5月に出版された12センチ四方ほどの大きさの絵本『看図認字』(上海人民出版社本社編)である。《QED》