【知道中国 2719回】                      二四・七・仲五

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習385)

 

では鄧小平は、なにを目指して対外開放を推し進めたのか。

鄧小平が強靱な政治的臂力で推し進めた対外開放の究極の狙いに関する議論は一先ず措くとして、拙稿「習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍」で扱った書籍を第2335回(習1/二二・三・初二)から読み返してみると、激怒し、嘲笑し、罵倒し、粉砕し、歴史の彼方に葬り去るべき“全人民の敵”が劉少奇から林彪・孔子を経て四人組へと変ろうとも、時に熱情を込めて、時に冷静に一貫して語られているのが歴史観と正しい国語(=中国語)に関する議論だったことに改めて気づかされる。

なぜ一貫して歴史と言葉(国語=中国語)が語られてきたのか。その根本を考えるに、共産党が中国の歴史の正統な担い手であり、国民にとって正当な存在であることを明々白々な形で国民の脳裏に刻みつけることが必須の課題であったからだろう。共産党にとって歴史は自らの権力の正統性と正当性を明示するための最重要な手段でなければならない。これを裏返してみるなら、独裁体制による国家統御(=党国体制)の正当性を保障する手段として歴史が機能しなくなった時、おそらく共産党政権は立ち行かなくなるに違いない。

もう一方の中国語だが、言葉が思想を定着させ、思想がヒトの行動を規定し左右するOS(基本ソフト)だと考えるなら、OS言語は共産党式中国語でなければならない。文字、発音、語彙、文法、修辞、文体などに鋳込まれた共産党の意図が記されたOSを、学校教育や社会教育を通じて全国民の脳裏にインストールする。かくて全国民は共産党の意図に適った振る舞いをみせることになるのではないか。

いわば歴史観と言語(中国語)観は、観音菩薩が乾坤(てんち)を大いに閙(さわ)がすような暴れん坊と化した孫悟空の頭に嵌めた緊箍児にも喩えられる。それというのも緊箍児があるかぎり、孫悟空は観音菩薩の掌から抜け出せなかったからである。

歴史観で先ず頭に浮かぶのが、2343回(習9/二二・三・初二)に登場した『怎樣學習歴史』(崔巍 兒童讀物出版社 1955年)である。「小学校高学年歴史学習用副読本」と銘打たれたこの本は、スターリンの死(1953年)とスターリン批判(56年)の間に出版されている。その後の中国は百花斉放・百家争鳴運動(56年)、反右派闘争(57年)、大躍進(58年)、社会主義教育運動(63~66年)と超弩級の政治運動が連続して発動され、やがて国を挙げて驚天動地・疾風怒濤の文革へと雪崩れ込んでいく。いわば1955年は嵐の前の静けさの時だった。

内容や文体・語彙から判断して対象読者を11、12歳前後に設定したと思われる『怎樣學習歴史』で歴史を学んだ世代は国共内戦時に幼少期を送り、建国を朧気ながら記憶に留め、10代半ばに大躍進大失敗の末の飢餓・困窮の時代を送り、20歳前後の多感な時期に文革を経験し、30歳代半ばで対外開放を迎えた世代と思われる。

『怎樣學習歴史』では“共産党にとっての良い子”を創りあげることを目指し、先ずは「だいたい四千年前後」を生きたと自称する「歴史爺さん」を登場させ、「『歴』とは経歴であり、ワシの気の遠くなるような経歴を指す。『史』とは記載することを意味する。だから『歴史』とは、ワシが経験してきたすべてを記録することなんじゃよ」と歴史の意味を説いた後、「よい子たち」に向かい「祖国の栄光の歴史」を語りだす。

「昔々のその昔、ワシが生まれて間もない頃で誰もが農業ということを知らない時代じゃったが、いまの河南省の黄河一帯に住んでいたモノたちは魚を獲り、猟をし、牛や羊を飼い苦しい生活を送っていた」。「誰もが労働を重ね日々智慧をつけ、やがて黄河や長江の流域から辺境まで荒地を拓いていった」。だから「中国は広大だが、とっても狭いといったって、祖先の血と汗が流されていない土地なんてコレッポッチもないんだヨ」《QED》