【知道中国 2716回】                      二四・七・初九

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習382)

 

かくて“絶体不可侵で至上至高の人治”を執行する権力を背景に、鄧小平は対外開放に歩を進めた。この段階で、鄧小平は極めて効率的な政策をぶち上げ、毛沢東政治が行き着かざるをえなかった“膨大な人口を抱える巨大な貧乏国”を「世界の工場」へと大変身させてしまう“超荒技”に踏み切る。国家、民族、いや党国体制、つまり共産党独裁を賭けて、鄧小平は対外開放という大博打に賭けた。丁とでるか、半とでたか。

やや大袈裟に言うなら人類史的大博打は、フタを開けてみたら、鄧小平の一人勝ちに終わった。鄧小平に成算があったかどうかは不明だが、鄧小平による決断の前提には経済が発展し生活水準が高まれば西欧的思考が浸透し、国民の間に共産党に対する疑念や嫌悪の感情が生まれ、共産党の独裁体制に風穴が空き、やがて中国にも西欧式の民主政治が行なわれることになるはず、という西側の大いなる誤解――サッカーでいう「オウン・ゴール」――があったわけだ。オヒトヨシが過ぎた幻想であった。

じつは毛沢東は「口」を消費に、「手」を生産に喩え、「人が1人増えれば口は1つ増えるだけだが、手は2本増える。ゆえに生産は消費を上回る」と頑なに信じ込んでいたがゆえに、産児制限を断固として許さなかった。つまり産めよ、増やせよ!である。かくて毛沢東政権末期には膨大な余剰人口(=失業層)が内陸農村部を中心に大々的に滞留する。

目の付け所が違う鄧小平は、ソコに賭けた。膨大な失業層という「禍」をタダ同然の労働力という「福」に転じさせようと考えた。じつは厳しい産児制限によってもたらされた人口過剰という「禍」は、人口ボーナスという「福」となって中国を潤した。深刻極まりない農工業部門の大不振と歴史的飢餓状況――国民的苦境――を招いてしまった毛沢東政治ではあったが、人口ボーナスという予想外の贈り物を後世に遺していたのである。

鄧小平は毛沢東統治の根幹であった対外閉鎖を対外開放に切り替え、人口移動を禁じた「戸口制度」に手を着けた。対外開放を進めて南部沿海地方に設定した「経済特区」に西側から資本(カネ)と技術(モノ)を大々的に呼び込む。その一方で戸口制度をなし崩し的に骨抜きにし、1982年には農民を農村にガンジ搦めに縛り付けていた人民公社までも解体し、内陸農村部に蹲るしかなかった余剰人口をタダ同然の人件費で「経済特区」に乗り込んできた外資工場に提供する。共産党政権はテイのいい口入れ屋となったわけだ。

かくて中国は《ヒト×モノ×カネ》の方程式に突き動かされ、弱肉強食野蛮強欲市場経済へと驀進する。これが、毛沢東が建国以来進めた社会主義国家建設策を真っ向から否定して推し進めた対外開放策(=社会主義市場経済)のカラクリだろう。

鄧小平は国家指導者個人としての毛沢東を否定する一方で、共産党を擬人化して毛沢東に重ね合わせ、文革でガタガタになってしまった共産党の権威・権力・財力の再構築を目指し対外開放に踏み切った。だから北京のど真ん中に位置する天安門に掲げられた巨大な毛沢東像は毛沢東に仮託した共産党であり、可視化された毛沢東=共産党の構図である。あれは毛沢東であって毛沢東ではなく、共産党のエンブレムと見なすべきだろう。

つまり鄧小平は社会主義市場経済を全国展開し、個々の国民に自らの才覚と努力次第で豊かな生活を獲得することが可能になる機会を提示する。かくて共産党から離れていった民心を繋ぎ止め、共産党の求心力を高め、権力基盤の再構築を目指した。だが無条件というわけではない。厳とした大原則を掲げて国民の行動に厳しい制限を加える。

鄧小平は、誰でもいいから儲けるだけ儲けろ。そのうちに社会全体が豊かになってゆく、とカネ儲けを大いに煽り、あたかも毛沢東思想の根幹である「自力更生」を思わせるような「先富論」を掲げた。だが、もう一つの大原則――共産党に対する批判は断固許さず。一言半句であれ厳罰に処す――で国民の個人的経済活動に厳格なタガをはめた。《QED》