【知道中国 2715回】                      二四・七・初七

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習381)

 

陳は「では、災禍はなぜ起こったのだろう? それは、灯明を叩き壊した和尚が寺を呪うようなものだ。自分自身がその原因だったにも拘わらず、個人の責任を問えば、人々は、残酷な政治の圧力や、盲目的な信仰、集団の決定とかを持ち出すだろう。だが、あらゆる人が無実となるとき、本当に無実だった人は、永遠に捨てられてしまう」とも呟く。

  

おそらく「災禍」は文革だけでなく、毛沢東主導で全土を舞台に強行された建国以来の一連の破天荒な社会主義化政策――確固たる政治意識を持つことで一気に社会主義社会建設を目指す――によって国民が被らざるをえなかった「災禍」を指すに違いない。

だが考えてみれば毛沢東が終始一貫して推し進めた社会主義化政策はスターリン式発展モデルの焼き直しであり、些か戯画化して表現するなら、毛沢東思想でコーティングされた過激な精神主義によって全土の労働力を限界まで動員することでしか達成されそうにないシロモノではなかったか。精神主義で経済発展を促そうなどという政策が失敗し、民心の離反と国民経済の劣化、国力の衰退を招くことは世界の歴史が教えているはずだ。

それにしても「あらゆる人が無実となるとき、本当に無実だった人は、永遠に捨てられてしまう」とは、なんとも考えさせられる一節だ。ここに見える「本当に無実だった人」とは誰であり、この場合の「無実」はなにを指すのか。改めて考えさせられる。

延辺朝鮮族自治区、チベット、北京大学における文革から始まって陳凱歌を挟んで土地改革において康生が指示した一連の「拷問のテクニック」まで。やや露悪気味に振り返ってみたが、どうやら道草が過ぎたようだ。

ここで改めて河東碧梧桐に引き返すのだが、彼の説く「芝居國」を文革当時の中国に当てはめてみると、凡ての役者=観客が引き受けざるをえなかった不幸は四人組が、あるいは四人組の背後に控えた毛沢東を加えた「五人組」が引き起こした権力独占という大強欲がもたらした。こう考えるだけでいいものだろうか。圧倒的多数の名もなき庶民が被害者であったことは確かだが、だからといって加害者ではなかったと断言できそうにない。

毛沢東時代の共産党を閉じられた無神論国家の司祭と見立てるなら、文革とは夥しい量の鮮血がブチ撒かれた盛大極まりないミサであった。鮮血に手を染めたのは司祭だけではないと思う。とはいえ血塗られた凄惨なミサ会場を対外開放というバラ色模様で覆い隠し、社会主義市場経済という名のパッチワークで飾ったのは鄧小平であったはず。

1978年12月、共産党は第11期三中全会を開催し、文革のみならず過去の左傾主義の誤りを全面的に正し、社会主義現代化に踏み切ることを決定している。

第11期三中全会では、「毛沢東の言ったこと、やったことは共に凡て正しい。毛路線を貫くべし」と主張する華国鋒を筆頭とする「二つの凡て派」を批判し、毛沢東思想における革命闘争哲学の根幹である階級闘争至上主義のスローガン(「階級闘争を以て綱とする」)の使用を禁止し、工作の重点を社会主義現代化路線に置いた。また党史上の犯罪と見なされた事案に再検討を加え、それらの関連する重要人物の冤罪の有無を再審査する。

さらに1976年1月の周恩来の死をキッカケに発生した天安門事件(第1次)を再検討し、「1976年の天安門事件は完全に革命的行動である」と位置づけ、関連する一切の誤った文書の撤回と事件に関連するすべての関係者の名誉回復を決定した。

第11期三中全会における最も重要な出来事は、やはり「今後、一切の重要問題は鄧小平同志の指示を請うこと」との決議に違いない。

この決議によって党内外に対し「最高実力者」として振る舞いうる絶対的な根拠を手にしたからこそ、鄧小平は毛沢東と同じように党国体制を一手に掌握し、党と国家と国民に対する生殺与奪の権を手中に収め、党国体制の頂点に立つことになったわけだ。《QED》