【知道中国 1062回】 一四・四・初九
――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(中野5)
「中国の旅」(中野重治『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年)
中野ら一行の訪中の2年前の55年5月、文芸評論家で詩人の胡風(1902~85年)が反革命集団の頭目として逮捕・投獄される。54年7月に党中央に宛てた長文の意見書(いわゆる「三十三万言の書」)で、文芸部門において党中央が指導することは官僚主義による文芸の扼殺だと批判したことが、反革命に当たると、毛沢東が烈火のごとく怒ったというのだ。反右派闘争においては、女流小説家の丁玲(1904~86年)が反党集団の一員と認定・断罪され、旧満州の辺境に位置する北大荒に追放されている。
彼女は1932年に共産党に入党し、長編小説の『太陽は桑乾河を照らす』によって、51年には当時の社会主義陣営版ノーベル文学賞ともいえるスターリン文学賞を受賞している。共産党員文学者として最高の栄誉を受けたわけだが、共産党が延安に逼塞していた当時、共産党男性幹部による家父長的支配や女性差別を批判したことに加え、国民党の獄中で転向した疑いを持たれ激しく批判されたのだ。
毛沢東=共産党の政治によって批判攻撃された2人の文学者には、当時、日本の文学者も少なからぬ関心を持っていたと。そこで一行の帰国後に、一行メンバーや周辺の文学関係者の間でひと悶着起きる。つまり、絶好の機会なのに、なぜ中国側に2人の文学者の問題を問い質さなかったのか、というのである。「丁玲問題はこんどの代表団の招待においても、会談のいわば公式テーマとして中国側が予定していたらし」にもかかわらず、といった趣旨の批判論文が日共系の『新日本文学』に掲載されているほどだ。
それに対し中野は、そんな予定は「どこにもなかった。ありえる筈のない」ことと真っ向から否定した後に、「両家でこれから仲よくして行こうというので、隣の主人を客に招いておいて、その席へ、昨夜の夫婦喧嘩の話を正式議題としてさしだす馬鹿がどこにいるか。問題はもともと日本側から出ていた」と批判する。「両家」とは日中両国文芸関係者のこと。
中野によれば、2人の問題は「会談のいわば公式テーマとして中国側が予定していた」のではなく、日本側が持ち出したということのようだが、そうだったとしても、文芸に携わる人々の間の派閥・イデオロギー問題を超えて、胡風問題にせよ丁玲問題にせよ、ことは政治と文芸という大きなテーマに直結する。やや大げさに表現すると文学者、広い意味でいうなら表現者としての死活問題にかかわってくるはずだ。だが、中野は「昨夜の夫婦喧嘩の話」と矮小化してしまう始末である。かくして中野は、「その日本側にしても、正式議題に丁玲問題を出すほど馬鹿だったのでも失礼だったのでも決してなかった。ただ私たちは、中国側もふくめて互いに文学者だった」と。
だが、2人にかかわる事件は、じつは隣家の「昨夜の夫婦喧嘩」ではなかった。
「胡風事件を毛沢東による知識分子粛清のたんなる一例と見なしたのでは、毛の(事件)重視の度合いを理解しそこなってしまうであろう。胡風事件は明かに、毛沢東と中央がいかにして国家を統治するかの、重要な指標になっていたのである」。そして「反胡風運動のなかで、一部の知識分子の態度は極めて積極的であった。実権を握る者への忠誠を表明するため、井戸に落ちた者に石を投げるように、同じ仲間に追い討ちをかけたのである。ひては、当局よりさらに過激な態度に出ることすらためらわなかった。これは、中国の一部知識分子の低劣な性格を反映している」(前掲『中華人民共和国史十五講』)。
「我々の党は〔中略〕イデオロギーの領域では一尊(毛沢東一人を尊しとした)を定めると同時に〔中略〕反右派闘争を発動して、全社会の言論の自由と出版の自由を剥奪した」(前掲『中国民主改革派の主張』)のである。
こうみてくると、どうやら「馬鹿だったの」は、誰あろう、中野本人でしたね。《QED》