【知道中国 2713回】                      二四・七・初三

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習379)

あと一例を加えると、

「紅い腕章の連中は、彼の両手両足を縛り挙げた。外で捕まえてきた野良猫を、彼のズボンに入れ、ズボンの上下をきつく縛った。野良猫は一晩中ズボンのなかで噛んだりひっかいたりした。彼は一晩中死にたいほどの痛みに惨めな叫び声をあげ、倉庫の中に閉じこめられた人々を一晩中震えあがらせた。気の小さい者は、ズボンの中で漏らしてしまった」。もちろん文中の「彼」は毛沢東の敵と見なされた哀れな生け贄である。

『兄弟』は飽くまでも小説。とはいえ、こういった残虐な場面からは、やはり現場を踏んだ者しか書き留めることのできない切迫感が伝わってくる。

次は文革当初における最高学府・北京大学での文革だが、ここでも「敵」に対する残忍極まりない個人攻撃が学生の手で日常化していた。それらは、建国前後に行なわれた土地改革の際、地主などの「階級敵」に対して日常的に繰り返されていた残忍極まりない仕打ちを思い起こさせるものだったと伝えられる。

土地改革の過程で農民に対する地主による残虐な仕打ちの数々を詳細に書き留めているのが、建国から3年後の1952年に出版された『蘇南土地改革訪問記』(潘光旦・全慰天 生活・読書・新知三聯書店 1952年)だ。当時、潘光旦・全慰天の2人は北京大学と肩を並べる最高学府の清華大学に勤務していた。

この2人が「中央人民政府政務院及中共中央統戦部」の指令を受け長江下流域の江蘇省南部で進められていた土地改革の実情見学に出かけたのは、1951年2月22日。4月9日に北京に戻るまでの約1月半、現地で見聞きした土地改革の実情を克明に綴っている。

地主がどのようにして農民から年貢や貸し付けた籾や農具の代金を搾り取るのか。その理不尽極まりない方法も興味深いが、ここで見ておきたいのは、なんといっても取り立てに応じられない農民に対してみせた地主の残酷な仕打ちである。

たとえば「坐冷磚頭」だが、真冬に農民を真っ裸にして後ろ手に縛り上げ地面に正座させ、重い石を膝に載せて頭から冷水をぶっかける。苛めて虐めてイジメ抜くわけだ。

「黒鰱魚」は農民を縛り上げ、この地方特産の太く鋭いトゲのある竹で編んだ籠に放り込んで蓋をした後、激しく地面を転がす。どんなに強情な農民でも、たちどころに音を上げてしまったそうだが、なにやら『兄弟』のズボンの中の野良猫を思い起こさせる。

かくて農民はアコギな地主を恨みに恨んで「邱要命(人殺しの邱)」「蕭剥皮(皮剥ぎの蕭)」「顧挖心(心臓抉りの顧)」などと呼んだそうだが、土地改革の過程で農村における権力を奪取した農民が彼ら悪徳地主にリンチの“倍返し”を見舞ったことは当然だった。

ややシツコイが、屋上屋を重ねておきたい。

1949年の建国前後の数年間を除き、常に毛沢東に影のように“扈従”し、特務工作という汚れ仕事の一切を引き受けることで毛沢東と共産党を支えた康生だが、「中国のベリア」と呼ばれるだけあって、冷酷非道・冷血無尽・残虐非道・酷薄無比で酷刑無窮・・・。

多数の農民の支持を集め、共産党政権成立の原動力ともなった土地改革を断行する際、「『土地改革団』(主として無法者、盗賊、無教育な共産党員からなる、土地改革に責任を持つグループ)」を組織し、「社会正義の名のもとに康は、農民たちが、仕返しとして地主や富農を殺すことさえ奨励」した。農民を焚きつけ地主に対する憎しみを煽ったわけだ。

地主に待っているのは銃殺、斬首、撲殺、磔、生き埋めなど。「厳寒の季節に薄い綿の服を着せ水をかけ、氷点下の戸外に出しておいて凍死させる『ガラスの服』や生きたまま顔だけ出して雪に生める『冷蔵庫』、穴に埋めて頭をかち割り脳を露出させる『開花』など」の「最も恐ろしく変わった死刑の方法」も数多く“発明”されたのだ。《QED》