【知道中国 2712回】 二四・七・初一
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習378)
文革の日々を克明に写し取った写真と詳細なキャプションが、チベットにおける文革の本質――漢族が犯した蛮行の数々――を雄弁に語り、冷静な眼差しで漢族の告発を続ける。
たとえば大衆大会の演壇に仁王立ちし両手を真横に広げ朗々と唱い上げるチベットの民族衣装を着た壮年の男を、ななめ正面から捉えた1枚である。
彼の後ろの壁には大きな2枚の五星紅旗が張られ、それに守られるように恭しく飾られた巨大な肖像写真の毛沢東は恰も会場全体を睥睨しているようだ。演壇には威儀を正した人民服姿の幹部が居並ぶ。「毛主席が人を遣わされ、雪山は微笑み白雲は道を切り拓く。一筋の黄金の帯が北京とラサとを結び、我らはチベットの至宝を抱え北京に向かい毛主席に奉げる。嗚呼、毛主席は我らに幸福をもたらす。感謝、感謝・・・」と、唱っている。まるで彼の伸びやかな高音がチベットの山々にこだましているように感じてしまう。
この写真を手にしたら、誰もがチベットの人々が勇躍と文革の戦列に加わり、文革の勝利を嬉々として歓迎し、毛沢東の偉大さを賛美していると受け取るに違いない。
だが、彼はチベット族ではない。「常留柱と呼ばれる漢族でチベット人に扮装している」のだ。チベット人を演ずる彼は「ラサにおける文化大革命慶祝大会においてチベット人民を代表して賛歌を唱った。チベット民謡を真似たメロディーの革命歌で、チベット人が作詞したものではない」とのキャプションを目にすると、完全な“やらせ”であり政治宣伝以外のなにものでもないことは明々白々。
極論すれば、やはりチベットでの文革は漢族による漢族のためのものでしかなかった。だからこそ、チベット寺院破壊に向かうために隊伍を組んだチベット族の民衆の目は、その勇ましい出で立ちとは裏腹に哀しげで虚ろなのだろう。
「チベット解放前は農奴だった」という「紅色歌唱家」は、右手に『毛主席語録』を抱え左の襟元に毛沢東バッチを光らせ、「毛主席は真赤な太陽。救いの星は共産党。農奴から解放されて唱えば、幸福の歌声は四方に響く」「チベット族と漢族は同じ母から生まれた娘。彼女らの名前は中国」と唱っている。
彼女の演技姿を捉えた写真を目の当たりにすると、彼女を取り巻く“革命群集”の視線は彼女に向かうことなく、虚空を彷徨っていることに気づかされる。だが、その中には侮蔑と嘲笑の眼差しで彼女を凝視する目線も感じられるのだ。
写真集『殺劫』の著者の1人である澤仁多吉は、今は四川省に組み込まれてしまったが、かつてはカムと呼ばれる東部チベットに生まれた元人民解放軍将校。膨大な遺品の中から文革関連写真を選び出し、解説を書いたのが娘の唯色。この写真集はチベット人の父と娘とによる共同作業によって編まれているのだ。だからだろう。『殺劫』に収められた写真の1枚1枚からは、父娘2代の、漢族に対する冷めた憤怒が伝わってくる。
次は文革の大混乱を現場で担った当時の都市の若者の行動だが、たとえば文革から開放へ、言い換えるなら狭量・過激な毛沢東思想教条主義から際限なき野蛮強欲カネ儲け主義へと激変していった激動の日々を生きた若者を描いた『兄弟 (上下)』(余華 文藝春秋 2010年)には、文革において日常化した政敵への残虐な仕打ちが記されている。
たとえば、「(階級の敵と看做された)彼らの顔を手で叩いてもいいし、彼らの腹を足で蹴ってもいいし、鼻をかんで彼らの首に鼻水を流し込んでもいいし、ぶらさげているモノを取り出して彼らの体に小便をかけてもいいんだ。彼らはバカにされても口応えする勇気はなく、他人を睨みつけることもできない」
「紅い腕章の連中は刑罰の方法を変えた。彼を地面にはいつくばらせ鉄のブラシを探してきて、土踏まずをこすった」。もちろん「紅い腕章の連中」とは紅衛兵だ。《QED》