【知道中国 2711回】 二四・六・念九
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習377)
かくも狷介な張だが、実兄は見捨てることなく援助を続けた。中国共産党に参加するために朝鮮を後にする彼に向かって、実兄は「われわれ朝鮮人はすべて理想主義者であり、理想主義は歴史を創り出す。中国人はあまりにも拝金主義者であるためキリスト教民族とはなれず、やがてその物質主義のため亡びるであろう」と諭したそうだ。
ちなみに盧溝橋事件翌年、「中国のべリア」こと康生(1898年~1975年)が延安で巻き起こした粛清の嵐の中で、張は「トロツキー分子」「日本間諜」として処刑されたらしい。
ここで写真集『延辺文化大革命』に戻る。
延辺での文革は、他地域からオルグにやってきた文革派学生に火を点けられた延辺大学の学生が、1966年8月27日に「827紅色革命反乱団」を成立させたところからはじまった。この勢力を制圧するために朝鮮族を中心とする「紅旗戦闘聯軍」が結成され、この組織から分離した朝鮮族によって朝鮮族自治州州長支持の旗を掲げた「労働者革命委員会」が生まれる。
一連の動きに対し、毛遠新は827紅色革命反乱団メンバーを中心にした「紅色造反革命委員会」を組織し、「朝鮮族は信じられない」「朝鮮族の学生は朝鮮語を学習する必要はない」「朝鮮語の寿命は長くて10年か15年だ」と嘯き、武闘の指揮を執った。朝鮮語の取り扱いに関しては、現在の習近平政権の言語政策を先取りしているようにも思える。
民族浄化を目的とするかのような過激な行動、凄惨な現場、残酷な被害情況、毛沢東への限りなき忠誠、「東北の太上皇」の別名で呼ばれた毛遠新に対する一部朝鮮族幹部の忠勤ぶり、両民族のとってつけたような友好シーンなどが頁を繰る毎に現われ、ありのままの朝鮮族の姿を浮かび上がらせていて興味は尽きない。流石に写真だ。「真」を「写」し取っているだけのことはある。
そのうちの最も印象深い1枚は、多くの武闘被害者を真正面から捉えた写真である。無言の彼らは寂しげにレンズを眺める。添えられたキャプションには、「延吉市を血で染め、豆満江を渡って故郷へ帰ろう」。だが、かりに「豆満江を渡って故郷へ帰」ったところで、待ち構えていたのは地獄のはずだから、しょせんは去るも地獄、残るも地獄。
写真集『延辺文化大革命』の著者は、延辺大学芸術学院美術系で教授を務める韓国人写真家。延辺朝鮮族自治州における朝鮮族の暮らしぶりを写真に収め、古い写真を集め、朝鮮族の歴史を掘り起こす過程で、ある朝鮮族写真家と知り合う。じつは朝鮮族が味わった「紅色恐怖」の実態を写し撮った膨大なフィルムを隠し持っていた彼は著者に対し、「私が死ぬまで発表するな」と。その時から10年。著者は「10年の約束」のサブタイトルを持つ写真集を出版することで、その朝鮮族写真家との約束を果たすこととなったわけだ。
延辺の朝鮮族にとっての文革に接したついでと言ってはなんだが、些か寄り道をしておきたい。そこで舞台をチベットに転ずる。
チベット民族は圧倒的な数の漢族が“民族大移動”したことで、生存空間、文化的矜持を奪われてしまった。以下、チベットにおける文革を捉えた写真集『殺劫』(澤仁多吉・唯色 大塊文化 2006年)に沿って考える。
『殺劫』には激越な政治的主張もない。民族浄化に対する悲憤・慨嘆も大仰で過激なスローガンも見当たらない。漢民族非難の絶叫も聞かれないし、民族的復仇への満腔の憤激も失地回復への猛々しいばかりの檄文の類もない。ましてや民族消滅策動に徒に危機感を募らせている風でもない。文革に翻弄されるがままに惨めに変貌していったチベットの寺院や街並み、漢族がなすがままに蹂躙され荒みきってゆき、遂には漢化への道を逼られるチベット社会の無残な姿が積年の恨みを秘めて淡々と記録されている。《QED》