【知道中国 2710回】                      二四・六・念七

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習376)

共産党が毛沢東の主導によって日常的に繰り返すに至った失政の数々、いわばテンコ盛りになった“不都合な真実”を白日の下に明らかにすることを断固として意図的に拒否している以上、河東の説く「芝居國」で演じられた文革という「芝居」の全容を知ることは、やはり不可能だろう。

考えるに当時は8億余の人口だったとされるから、河東の指摘のままに表現するなら8億余が「役者の素質を具有」していただけではなく、それだけの数の役者が登場し、役者と同じ数の観客が眺めていたことになる。

文革に関しては、これまでも数多くの回想録やら懺悔録や研究書の類が出版されている。その一部を読んだだけでも、凄惨極まりない殺し合い、酸鼻を極めた粛正、さらには食人など、河東が説く「芝居」の2文字では到底言い尽くせないおぞましく理不尽極まりない蛮行・凶行が行なわれていたことを知ることができる。

たとえば写真集『延辺文化大革命』(柳銀珪 図書出版土香 2010年)が伝える延辺朝鮮族自治州での文革である。

延辺における文革は毛沢東の甥で四人組、わけても江青と近かった毛遠新がリードしたことで、民族浄化の色合いがより先鋭化され、それだけに残酷さを増すことになった。そんな毛遠新の“策動”を可能にしたのも、漢族と朝鮮族との間の埋めようもない相互不信感であったに違いない。

満洲国時代は漢族の監視役となって働き、中国共産党と共に抗日ゲリラ戦を展開したのも朝鮮の独立のためであり、中国のためではなかった。漢族にとって朝鮮族は招かれざる移住民でしかない――これが朝鮮族に対する漢族の一般的な見方といわれる。

こんな考えを朝鮮族が認めるわけはない。優秀である朝鮮族が志願して共に戦ったからこそ中国の解放は達成されたわけであり、その優秀さゆえに、中国政府は百万人程度の少数ながら朝鮮族に自治州を用意せざるをえなかった――これが朝鮮族の基本姿勢らしい。

 まあ、どっちもどっち、と言いたところ。とはいえ互いに相反する潜在意識を持っている以上、憎悪が軽侮を招き、侮蔑が憎悪を増幅させ、憎しみの赴くままに行動が過激に奔ってしまうのは致し方のないこと。人情としても止めようはない。

ここで延安時代の中国共産党に参加した朝鮮人革命家の張志楽(1905年~38年)が、延安の洞窟に潜んでいた毛沢東と中国共産党を西側世界に広く知らしめた『中国の赤い星』の著者エドガー・スノーのニム・ウェールズ夫人と共に著わした自伝『アリランの歌』(岩波文庫1995年)が、否が応でも思い出される。

 朝鮮西北部の農家に生まれた張は、兄の援助を得て平壌のキリスト教系中等学校に学び、朝鮮の独立運動に参加する。「一九一九年、朝鮮から逃げ出したあの秋の日、私は朝鮮を憎悪し、泣きごえが闘いのときの声に替わるまでは帰るまいと心に誓った」。以後、東京、満州、上海、北京などと拠点を移しながら地下活動を続けた末に、中国共産党に参加する。

張は「人を許さぬ決然たる性格なので、政治上も敵も多い。清廉潔白であることに絶対的にこだわる・・・。(政治的に)ちょっとでも逸脱した人がいるとほとんど我慢できず」と自己分析し、「中国では澄んだ川や運河を見たことがないのです。私たち朝鮮人は朝鮮の川で自殺するなら満足だというのですが、中国の川はきたなくて、そんな気になりません」と語り、「自分たちが儲かるというのでなければ面倒を避けたがる中国人の性格を承知していた」と洩らし、「中国は無法律だ」と呟く。逮捕に来た官憲に対し無抵抗の中国人同志を前に「なぜあほうみたいにつっ立ってる? 卑怯者め! なぜ逃げないんだ?」「朝鮮人ならこんな時絶対にあきらめない」と怒声を挙げるのであった。《QED》