【知道中国 2709回】                      二四・六・念五

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習375)

まがりなりにも「偉大的領袖」の夫人で“昨日までのファーストレディー”だった江青である。たしかに「勝てば官軍、負ければ賊軍」は世の常とはいうが、勝負が決したからとはいえ、いくらなんでもタンツボは言い過ぎだろうに。それにしてもタンツボとは言い得て妙だ。はたして習近平も、若き日には江青をタンツボ呼ばわりしたのだろうか。

振り返ってみれば、江青をタンツボとこき下ろし、四人組の残党を政治的に血祭りに上げ、それまでの鬱憤を晴らそうとしたところで、1966年からの10年の間に中国全土を巨大な芝居小屋にして延々と繰り返された文革と名づけられた長尺ものの悲喜劇においては、誰もが主役であり脇役であり端役を演じ、その一方で熱狂的な観客であり、醒めた目で、時に恐怖の目で芝居を眺める批評家であったはずだ。もちろん例外はあっただろうが。

ここで唐突だが、愛媛県松山の儒者の家に生まれ、中学時代に正岡子規から俳句の手ほどきを受けたことで生涯を俳句の可能性に奉げた河東碧梧桐(明治6=1873年~昭和12=1937年)に転じてみたい。彼は、五・四運動の1年ほど前に当たる大正7(1918)年4月から7月末にかけて南は広東から北は北京までを歩いた。旅の日々を綴った『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)で、「支那はそれ自身芝居國である」と呟いている。

なぜ河東は、そう思うに至ったのか。

旅の途次で寧波を離れる直前だった。河東は七塔法恩寺という大きな寺に立ち寄る。

「一人の磊落な坊さんが出て來た」。「この僧侶は滅多に人には見せない、自分で樂しんでゐる現世極樂を持つてゐるとの事」であり、その「現世極樂」に案内してもらった。寺の奥まった一角の小部屋がそれだった。

 「中にはいつて見て、私の夢は覺めた、九天の空から奈落の底に突き落とされたやうに、私の空想は叩きつけられ」てしまう。それというのも「現世極樂」の実体が「四方の壁と天井の眞中の明りとを除いた部分とに、一面に鏡をはめて、其のひまひまに、縮緬の派手な切れで作つた住吉踊のやうな瓔珞類似のもの、人形寶石等を飾りつけたもの」だからだ。極楽などと言えたような代物ではない。悪趣味極まりない子供騙し以下のガラクタだった。

 「気骨ある、支那僧侶中の出色の人」ともあろう者がチャチな仕掛けに現を抜かすとは。「眞面目なのか、それともトボケてゐるのか」。だが、だからといって「この一事を基點として、支那僧侶の思想や道德問題にまで説き及ぼさうとも考へない」。それというのも河東は「『現世極樂』とか『碧落黃泉』とかの文字の意味あひで、人を或る處にまで釣り込む手段の巧妙さを考へずには濟まなかつた」からである。

 建国後の中国の動きを振り返れば、毛沢東時代には社会全体を巻き込んだ「百花斉放 百家争鳴」「大躍進」「愚公移山」「超英趕美」「自力更生」「為人民服務」から始まって、鄧小平の「先富論」に「韜光養晦」、江澤民の「三個代表論」、胡錦濤の「和諧社会」、習近平の「中華民族の偉大な復興」「中国の夢」「人類共同体」など、「文字の意味あひで、人を或る處にまで釣り込む手段の巧妙さ」を数え上げたら、本当にキリがない。

 かくて「支那人の先天的に豐富な芝居氣を享け持つてゐることに想到」した河東は、彼らは「殊更に企むことなしに、それぞれの職業なり地位なりに相應する芝居を演ずる敏感性を持つてゐる」と注意を喚起し、併せて「善い意味に於て、支那人は誰もが役者の素質を具有してゐる。支那はそれ自身芝居國である」と「直覺」するに至るのであった。

改めて文革の10年を振り返れば、「文字の意味あひで、人を或る處にまで釣り込む手段の巧妙さ」が浮かんでくるし、「誰もが役者の素質を具有」し「それ自身芝居國である」ことも痛感する。文革を遡ること半世紀ほどの昔に、その辺りの民族の思考回路、精神的カラクリを「直覺」するに至った俳人の眼力の鋭敏さに驚嘆させられるばかり。《QED》