【知道中国 2708回】 二四・六・念三
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習374)
『再生集』(侯宝林 山西人民出版社)からは、同じ11月に出版された『卡薩布蘭卡』とは違った意味で、当時の中国社会の雰囲気――四人組に対する徹底した嫌悪感と嘲りの声――が切実に伝わってくる。痛快極まりない反面、摩訶不思議な感興も湧いてもくる。
著者の侯宝林(1917年~93年)は古くからの寄席演芸である「相声(まんざい)」に政治教育(=宣伝)の要素を織り込み、鮮やかな口跡で共産党イメージの向上に尽力した。晩年は北京大学教授として伝統芸能について講義するなど、お笑い芸を極めた立志伝中の芸人。「相声大師」とも呼ばれ、毛沢東が贔屓にしていた芸人の1人だ。
『再生集』に収まる10数本の新作漫才の台本は、「四人組によって直接的に扼殺され、あるものは間接的にズタズタにされ、舞台に掛けることができなかった。だが英明なる領袖・華主席を頭とする党中央が四人組を粉砕して後、それらの作品に新しい生命が吹き込まれたばかりか、侯宝林の芸術生命も舞台や電波の世界で蘇った」。かくて『再生集』と呼ぶことになっただろうが、参考までに「姓名学」と題される演目の一部をみておきたい。
甲:ヤツの芸なんて、お話にはなりません。だが目端の利いた政治芝居はオハコだったんです。その昔、メシの種だってんで革命に首を突っ込んだ途端、国民党の特務にふん捕まってしまう。と、恥知らずにも叛徒に早変わりって寸法だ。シャバに戻されるや、人民の敵である蔣介石のクソッタレの誕生祝に唱って踊って大ハシャギ。
乙:そいつがヤツの本性ってワケですね。
甲:それからヤツは女優じゃ先ずはモノにならないだろうからと、トットと見切りをつけた。醜い前歴を隠して革命の隊伍に紛れ込み藍蘋から江青へ。変幻自在デス。
乙:江青という名前には確かな来歴がありそうな・・・。
甲:大ありも大ありってワケでして。古い詩の「一曲の演奏が終わると奏者は消え去り、川辺にいくつかの青山が聳えるのみ」を詠んだ「曲終人不見、江上数峰青」が出典だ。まあ、蔣介石のくたばりぞこないのために誕生賛歌を唱い終わったら、唱った藍蘋が消えちまった、という寸法ですよ。
乙:どこへ?
甲:解放区へ紛れ込んだ。
乙:さすがに政治的ペテン師・・・。
甲:だけど藍蘋の2文字を忘れたわけではない。そこで、さっきの古い詩の後ろの句の頭と尻尾の1文字を切り取って合わせ、姓は江で名は青ってワケ。「青は藍より出ずる」とシャレたんでしょう。
乙:その昔のネジケた根性は忘れず、そのまま続けて反革命をやらかそうとでも。
甲:江青の2文字に隠された秘密を知ろうと思ったら、本人が創ったとホザイテいる「江上に奇(くすし)き峰あるも、烟霧に鎖(と)ざされる。尋常(つね)は見えねど、偶爾(とき)に猙獰(どうもう)さを露わす」という、あの黒詩(悪意が隠された詩)が参考になります。
乙:えッ、確か最後の一句は「偶爾露崢嶸」じゃなかったかな。「崢嶸」は峻険で美しい山々を形容してますが・・・。
甲:なあに、ヤツには猙獰がピッタリ。いつもは猫を被ってますが、イザという時になると、猙獰な本性を露わすってことですヨ。
――このように禍々しく毒々しい江青批判は止まず、「人民にとっては唾棄すべきヤツです。だからヤツは痰壷です」などと、“昨日までのファーストレディー”を「痰壷」に喩え、国を挙げて屈辱を与え笑い飛ばし、公然と抹殺しようとする。ヤレヤレ。《QED》