【知道中国 2705回】                      二四・六・仲七

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習371)

 当時は「戸口制度」に縛られ、国民の自由な移動は厳格に制限され、農民は農村(人民公社)から出られず、都市住民は都市から他に移住することは不可能に近かった。中国には「木は動かすと死ぬが、人は動かすと活き活きする」という格言があるが、まさに僅か80頁の無機質な時刻表の行間から、対外開放によって「活き活きする」ことになる時代を目前にした中国社会の姿が浮かび上がってくるから興味深い。

巻頭に置かれているのが①北京=ウランバートル=モスクワ、②北京=ハノイ、③北京=満洲里=モスクワ、④北京=平壌を結ぶ4本の国際路線である。

朝の8時5分に北京を発った列車は時計の針が夜中の12時を廻った頃にモンゴルとの国境を越え、ウランバートル着は13時20分。1時間ほど小休止の後にモスクワに向けて出発。イルクーツク着は翌朝の8時41分。ここまでで北京から2日間。クラシノヤルスクに着くのは翌朝の4時前。翌日深夜の0時18分にオムスクを離れた列車は一路西へ。モスクワ着は17時30分。全行程7865キロ。毎週、北京発が3便で、モスクワ発が4便。

 北京=ハノイ間は上下で週11便。北京発が毎週5便で、ハノイ発は6便。20時00分に北京を発てば、桂林の手前で日付が変わり、翌日の14時56分に最南端の憑祥着。国境を越えてヴェトナム領内へ。ハノイ着は21時00分で北京から2日間。全行程2966キロ。

 1週間単位の便数を見ると、北京=ウランバートル間が最多で179便(北京発89便、ウランバートル発90便)、次いで北京=平壌間で55便(北京発27便、平壌発28便)、北京=満洲里=モスクワ間は39便(北京発19便、モスクワ発20便)――ということは、当時、中国にとって最も近い外国はモンゴルだったと考えられる。

 国内の鉄道網を示した「全国鉄路示意図」を見ると、北は吉林西、東は東部シベリアと国境を接する綏芬河、南はヴェトナムとの国境の憑祥や雲南省最南端の河口、西はウルムチの先の烏西まで、取り敢えず全土が鉄道で結ばれていることになっている。だが文革後遺症は深刻だっただろうし、どこまで整備されていたのかは不明だ。

ところで全国鉄路示意図にはゴ丁寧にも台湾の路線図も書き込まれているが、すべてが点線で結ぶに止めている。「神聖不可分な領土」と大見得を切ったところで、台湾の取り扱いに戸惑っている様子が見て取れるようで、なんともビミョーで可笑しい。

 鉄道利用上の注意を見ると、旅客列車は①普通(硬座と軟座)、②簡易客車、③有蓋貨車転用客車の3種類に分かれている。硬座は主に板製の椅子で、軟座はクッションあり。簡易客車がどんなものか不明だが、有蓋貨車代用客車というのが当時の物資不足を物語っていてモノ哀しいばかり。どんな車内環境だったのか。大いに興味をそそられる。

乗車券を紛失した場合には改めて購入すべし。乗車中に紛失した場合は臨時切符の発行を受け料金を支払う。元の乗車券が見つかった場合は、双方の切符を提示し、過払い分の還付を受けること。乗車券を購入した際は、その場で内容を確認し、誤記などを見つけたら直ちに窓口に申し出ること、ともある。さぞや発券関連事故が多かったからだろう。

鶏、鴨、鵞鳥、犬、ブタ、猿、猫など車内を汚染する家禽の持込が強く禁止されているところから判断して、各種の家禽が車内に持ち込まれ、人畜混在した汽車の旅が日常化していたことが容易に想像される。これが文革収束直後の中国の現実だったと考えられる。

それから半世紀余。いまや全土を高速鉄路で網の目のように結び、一帯一路に沿って国境を越えた鉄道ネットワークはユーラシア大陸を西に進み、ドーバー海峡を潜ってロンドンへ。さらには時速500キロのリニア・モーターも導入しようという勢いの現在からするなら、オ粗末ながらも長閑で、どうしようもないほどに時代遅れの旅だっただろう。『全国鉄路 旅客快車時刻表』から、対外開放直前の国情が鮮やかに浮かび上がる。《QED》