【知道中国 2701回】 二四・六・初九
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習367)
著者は冒頭に置かれた「致読者」で『作文知識講話』出版の経緯を次のように記す。
1961年に中央人民広播電台児童部と中国少年児童出版社からの要請を受け、子供たちに作文の仕方を学ばせようと編んだ。初版から10数年が過ぎ、「まさに華主席を首とする党中央が王・張・江・姚の“四人組”を一挙に粉砕して1周年となったことを機に、出版社が再版を決定した」。それというのも、四人組は毛沢東が掲げた「学ぶことを主とせよ」との方針に「徹底して反対し」、「教師に打撃を与え、生徒に害毒を及ぼし、多くの学校に混乱無秩序をもたらしてしまった」からだ。
四人組のデタラメ極まりない教育政策によって生徒の作文が受けざるをえなかった悪影響――「ウソ」「大ボラ」「無味乾燥」「単調で形式的な表現」「貧困な語彙」「他人の文章の引き写し」など――を克服し、「将来の祖国の大地に、毛主席が説いた生き方と周総理が描いた壮大な青写真を自分たちの手で実現するために、心を込めて準備することを強く望む!」
このような趣旨の「致読者」に沿って、豊富な実例を挙げながらきめ細かな作文指導が続く。だが、著者が熱く説く「作文知識」から導かれる文章は、「ウソ」「大ボラ」「無味乾燥」「単調で形式的な表現」「貧困な語彙」「決まり切った硬直化した表現」「他人の文章の引き写し」から大きく離れるものではなく、著者が強く非難する四人組が作文教育を通じて子供たちに及ぼした悪影響を克服したなどと自慢できるシロモノではない。
著者の説く「作文知識」が四人組の悪影響の一掃を掲げながらも、その一方で「毛主席が説いた生き方と周総理が描いた壮大な青写真」の実現を目指すわけだから、『作文知識講話』を学んで文章作法や思考方法を身につけた世代の頭脳回路は「毛主席が説いた生き方と周総理が描いた壮大な青写真」に沿って基本設計されているに違いない。ならば、あの当時の子供たち――習近平の次の世代――も、その脳内に「毛主席が説いた生き方と周総理が描いた壮大な青写真」の完成を目指していた当時が痕跡を留めていると考えるのだが。
文体(規則、約束事)が思想(表現された内容)を規定すると考えるなら、『作文知識講話』は「習近平後」を知るための隠れた手引き書と見なしてもいいのではないか。
1978年1月には、文革前夜ともいえる1964年4月に出版された『霓虹灯火的哨兵(九場話劇)』(沈西蒙・漠雁・呂興臣編劇、沈西蒙、人民文学出版社)が再版されている。
建国前夜の1949年7月に上海に進駐し、依然として暗躍する資本家や封建勢力の策動を根絶やしにし、人々の安寧を守り、やがて朝鮮の戦場に赴く人民解放軍南京部隊の姿を描く現代劇。同名小説の舞台化で、初舞台は1963年。文革初期、さらには四人組独裁期にみられたウンザリするような毛沢東賛歌は影を潜め、「我が国社会主義建設防衛」に果たす人民解放軍の存在に焦点が当てられ、その“滅私奉党”ぶりが大いに賞賛されている。
1978年3月出版では『中華人民共和国第五届全国人民代表大会第一次会議文件』(生活・讀書・新知三聯書店香港分店)が手許に残るが、3年前に同じ書店から出版された『中華人民共和国第四届全国人民代表大会第一次会議文件匯編』と比較し、この3年間の中国の変貌ぶりを振り返っておくのも一興だろう。
周恩来の死は1976年1月で、唐山地震で大地震は半年後の同年7月。2ヶ月後の9月には毛沢東が「マルクスとの面会」に旅立ち、その直後の10月には四人組逮捕されている。「第四届大会」が開催された1975年1月当時、余命幾許もないとはいえ毛沢東の威令は依然として健在だった。そこで四人組は毛の威光を背中に勝手のし放題。いわば文革派最後の光芒の下で開かれた最後の大会ということになる。周恩来(総理)が政治工作報告を行ない、張春橋(副総理)は憲法改正関連報告を担当しているのだ。《QED》