【知道中国 2697回】 二四・六・初一
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習363)
この時期に、なぜ『李白詩選』なのか。こんな素朴な疑問が湧く。じつは初版が出版された1962年8月当時は、毛沢東が国情の現実に目を向けることなくゴリ押しした大躍進が必然的に招き寄せてしまった飢餓地獄に中国全土が瀕死の状態にあった頃だ。
「酒中仙」で知られ、一斗の酒を呑むうちに百篇の詩を詠んだことから「李白一斗詩百篇」と形容されたほど。ガンガン・グイグイ・ゴクゴクと杯を傾けながら奔らせる筆の先から壮大・幽玄な世界が立ち現れてくるわけだから、例の「白髪三千丈」の類だと思いながらも、やはり尋常ではない。加えて若い頃は任侠の道に勤しんだらしいが、義侠心に富んだ無頼の日々を送ったということにしておこう。はて、これも「白髪三千丈」なのか。
日夜豪飲し、金銭を軽んじ他人に施すことを好んだ。ある時、仙術を修めた道士に従って都の長安へ行き、玄宗皇帝を讃える文章を奉ずるや大いに気に入られ、皇帝から学術面における側近として遇された。鯨飲の無頼、転じて皇帝御用達文人といったところか。
皇帝の身辺にあっても豪放磊落な振る舞いに変わりなく、皇帝周辺から嫌われ、宮仕えに嫌気がさしたのだろう。遂には皇帝の許を辞し全土を逍遥し名勝に遊ぶ。戦乱に巻き込まれ流罪になったものの、恩赦を機に再び官に召されたが62歳で卒す。酔って水中の月を捉まえようとして溺れ死んだとも伝えられている。一斗を呑む酒中仙に相応しい最期と言いたいところだが、後の記録などから判断して俄かには信じられそうにない。
『李白詩選』には、そんな李白の代表的な詩が彼の歩んだ人生と時代情況に沿って集められ、詳細な注釈が施されている。そこで、この本が描き出そうとする李白像を以下に纏めてみると、
――李白が主に活動した時期は「唐王朝の政治は日に日に腐敗し、社会の矛盾が激化し、遂には安史の乱(巨大な内乱)が勃発し、強盛から衰退への曲がり角にあった」。「李白は、そんな時期に起きた多くの重大な歴史的事件の目撃者であり、この時代を詠んだ卓越した詩人」である。
「李白は仙界を遊ぶ形式の詩を多く詠んでいるが、そのなかで宗教的迷信のデタラメさを明確に詠い上げるだけでなく、それによって真っ暗な現実に対する不満と批判とを常に表現していた」。彼の詩は「玄宗皇帝を頭とする統治集団の暗黒振りと腐れ切った姿を厳しく糾弾し、神聖視されていた孔子と儒教とを嘲り笑い、芸術における表現手法の翼を思い切って広げ、想像の世界を縦横無尽に飛翔し」、詩もまた人を教え導く礼教の一環だと主張する儒教伝統の詩歌観に「背を向けた」のである。
李白の作品は、「国家の安危に高い関心が払われている。進歩的な理想的立場を堅持し追い求め、反動権力を蔑視し権貴に反抗し、暗黒な現実を厳しく憎み」、「腐れ切った反動統治集団を情け容赦なく告発し、激しく打ち据え」ている。
彼の作品は「当時の詩歌の発展に巨大な推進作用を果たしただけでなく、後世の詩歌にも深甚な影響を与えた。彼は、国家の安危と人民の疾苦に深い関心を抱く進歩思想と腐敗堕落した権力と儒家の旧い伝統を蔑視する反抗精神を持ち、芸術面での卓越した業績は後世の人々の尊敬を集め学ぶべきものである」――
どうやら李白は世間が驚くような大酒呑みではなく、反儒学の立場から腐敗堕落した王朝権力集団への鋭い批判精神を込めた多くの作品を詠み続けた進歩思想の持ち主だったと主張したいようだ。だが、この李白解釈には無理がありすぎる。それでは「李白一斗詩百篇」と形容される李白の自由闊達・融通無碍な詩心を台無しにしてしまうだろうに。
「酒中仙」の李白をも現在の政治闘争に引きずり込んでしまう現代中国のありようには改めて驚くばかり。終始一貫・変幻自在・徹頭徹尾・猪突妄信・革命至上・・・《QED》