【知道中国 2693回】                      二四・五・念四

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習359)

1977年9月で特筆すべきは、やはり17日に鄧小平が教育部幹部に対し、実情に合わないとして「二つの評価」を否定したことだろう。「二つの評価」とは、1971年8月に四人組主導で開かれた全国教育工作会議が下した建国以来の教育政策に関する評価――①毛沢東思想に基づく教育行政が実行されず、教育界ではブルジョワ階級によるプロレタリア階級に対する独裁が行なわれていた。②教育従事者の大部分は基本的にブルジョワ階級の世界観に基づいていた――を指す。

毛沢東が承認した「二つの評価」を、鄧小平は①一連の極左思想が共産党による知識人迫害を導き、②教育界における極左思想が教育事業の発展を大いに阻害した――と“断罪”したわけだ。なお「二つの評価」は鄧小平主導による開放政策決定の3ヶ月後の1979年3月、中共中央によって正式に否定されている。だから1977年9月時点での鄧小平の言動は、開放政策への“地均し”と見なすこともできそうだ。

この月出版で手許に置いてある唯一の『甲午戦争的故事』(呂登来編写 上海人民出版社)は、日清戦争を次のように“解説”している。

――日本は朝鮮・中国の侵略のために陰謀を巡らし、侵略戦争を仕掛けてきた。清朝政権が極端に腐敗堕落した売国無能政権だったことから陸海軍が壊滅的敗北を被ったうえに、屈辱売国的な馬関条約を強要された。だが、「東北人民は英雄的抵抗を展開」する一方、台湾では「神聖な領土である台湾省を守る闘争が展開された」のである。

中国人民は日本による中国侵略戦争に対し「反侵略の正義の戦争」を推し進めたが、当時の中国を統治していた清国政府が極端に腐敗した売国政権であったことで敗北してしまった。台湾同胞の「英雄的な闘争」にもかかわらず、台湾は奪われてしまい、目下のところは「一握りの国民党反動派が帝国主義の支援の下で台湾を掠め取っている。だが、彼らの命運は程なく途切れる」はずだ。

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「甲午中日戦争」は計り知れないほどの影響を中国に与えた。この時以降、帝国主義列強は中国分割に狂奔し、中国を半殖民地のドロ沼に引きずりこむこととなる。だが、その後、中国人民は中国を侵略する帝国主義に対し偉大なる闘争に勇躍として立ち上がるのであった――

『甲午戦争的故事』の行間からは四人組が強引に振り回した毛沢東思想原理主義イデオロギーの過激な色合いが失せ、代わって素朴な民族主義が感じられる。

1977年10月で指摘しておきたいのは、20日に北京で全国高等学校招生工作会議が開催され、大学入試に関し文革以前の高考制度(入試制度)の復活が決定し、卒業予定学生にまで受験資格が広げられたこと。どうやら大学入試改革を嚆矢として脱四人組(=脱毛)化に踏み出したようだ。

10月出版では『藁城台西商代遺址』(河北省博物館、文管処台西考古隊・河北省藁城県台西大隊理論小組 文物出版社)、『駁謊言製造者』(人民出版社)、『語文学習叢刊 1』(上海師範大学《語文学習》叢刊編輯組 上海人民出版社)、『少年自然科学叢書 稀有金属世界』(朱志堯編著 上海人民出版社)の4冊が手許に残る。

『藁城台西商代遺址』は商代遺跡の発掘報告書。専門的な報告はともかく、「数千年の間土中に埋もれていた歴史遺産は歴史唯物主義とマルクス主義階級闘争学説の教材であり、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想宣伝の教室であり、搾取階級とその意識形態を批判するための戦場である」。「考古工作はプロレタリア階級の政治と工農兵に服務するために傑出した役割を果たすことができるし、極めて有用である」との主張に注目しておきたい。やはり「歴史遺産」は政治教育の「教室」「戦場」であらねばならないのである。《QED》