【知道中国 2686回】                      二四・五・十

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習352)

ここで疑問が湧く。なぜ、この時期にロシア・アバンギャルド芸術の象徴でもあるマヤコフスキイが謳い上げた長編叙事詩『ウラジーミル・イリーチ・レーニン』なのか。

四人組を打倒し華国鋒政権を成立させたが、政権基盤は必ずしも固まってはいるわけでも、まして党全体が華国鋒を確固と支持しているわけでもなさそうだ。反四人組では共同戦線を張っていた革命の元勲たちからするなら、華国鋒が毛沢東によって後継指名されたとは言え、その手腕は未知数であり、加えて復活を遂げた鄧小平の動向も判然とはしない。

その辺りの事情を知ることができるのではなかろうかと考え、「レーニンはマルクス、エンゲルス死去以後の国際共産主義運動における偉大な指導者であり、全世界のプロレタリア階級と被抑圧人民にとっての偉大な導き手である」で始まる「序言」を読んでみた。

――「革命の発展は、プロレタリア階級の文芸にプロレタリア階級の偉大な指導者を徹底して教え広める重大で光栄ある任務を担わせる」。ということは『ウラジーミル・イリーチ・レーニン』に「重大で光栄ある任務を担わせ」ようとでもいうのか。

この長編詩は「出版から半世紀が過ぎ、時の流れの試練を受けている。いま読んでも行間にその時代の息吹が躍動し、戦闘への激情が漲り、革命の切っ先は鋭く耀き」、「レーニンの輝ける英姿を謳い上げる」。「このような指導者を持たなかったらプロレタリア階級独裁も、プロレタリア階級の“統一した意思”も、一片の空念仏に終わってしまう」らしい。

「それぞれの時代は共に自らの偉大な人物を必要としている」(マルクス)し、「革命を必要とするなら、一個の革命党が必要」(毛沢東)となる。これが革命の本来の姿なのか。

そこで「カギとなる問題は、党の指導権は断固としてマルクス主義者が掌握しなければならないし、決して修正主義者に簒奪されてはならない。プロレタリア政党とプロレタリア階級の指導者は断固として一体不可分であり、緊密に結び合わなければならない。これは国際共産主義運動の経験が証明しているところである」と記した後、『ウラジーミル・イリーチ・レーニン』の次の部分を引用する。(以下は『列寧』の中国語訳から筆者訳)

「党、労働者階級の背骨。/党、我らが事業の永遠。/階級の頭脳、階級の事業、階級の力量、階級の光栄――これこそが党。/党とレーニン、一対であり、双子の兄弟。/歴史の母親の眼からすれば、どちらが、より尊いのか?/我らが『レーニン』と口を開けば、指すところは党/我らが『党』と説けば、それはレーニン」――

まさに《毛沢東=党、党=毛沢東》を強烈に暗示した後、さらに続ける。

――「長編詩の作者は、マルクス主義の外套を身に纏い、労働者・農民を見下し自らを『指導者』と騙る輩を情け容赦なく打ちのめし、ヤツらが装う『天才』の化けの皮を引っ剥がし、ヤツらが振る舞う『貴族』の本質を暴き出している」

「長編詩は世界の人民がレーニンを悼み悲しむ姿を活き活きと再現し人民大衆の革命指導者に対する無限の熱愛と限りなき思慕の情を余すところなく表している」

「レーニンは、『虐げられ抑圧された階級において勇名を馳せた革命指導者が亡くなるや、敵は直ちにその盛名を引っ剥がし、抑圧された人民を騙そうと企てる。こういったことは歴史上、しばしばみられた』と説いている」

「我々が偉大なる指導者で導き手である毛主席を心から偲び、四人組批判を徹底して深化させようとする現在、マヤコフスキイの長編詩『レーニン』を重ねて読むことで、この上なく心に響くものがある」

「長編詩『列寧』の一節をいま読み返すことは、党内に巣くったブルジョワ階級の典型である四人組に対する有力な批判となる」――

 「序言」は「歴史の潮流に逆らう反動派」に向けた激越な罵言で終わる。《QED》