【知道中国 2680回】                      二四・四・念八

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習346)

『《斉民要術》選注』は『斉民要術』の記述の中から田起し、稲作、樹木の剪定、牛・馬・驢馬の飼育、養豚、醤油製造に関する記述を選んで紹介している。だから6世紀の中国農民が身につけた農法、家畜飼育法などを具体的に知ることができて興味津々。

そこで、中国人の食や人生とって必要不可欠な豚の飼育法に関する部分の現代語訳を、取り急ぎ日本語に訳してみたい。

――嘴が長いのは太らないから、メス豚は嘴の短いのを選べ。殺した時に毛を取るのが簡単だから、毛の長いのはダメだ。メスの子豚と母豚とを同じ囲いで飼うと、じゃれあってばかりいて餌を食べることを忘れ大きくなっても太らない。オスの子豚は暴れたがり、囲っておかないと何処でも入ってしまう。

だから母豚と同じ囲いで飼え。囲いが狭いと太りやすいので、囲いは小さくても構わない。糞尿や汚水は暑さを防ぐから豚の成育に好影響を与えるから、囲いの中は糞尿や汚水が多くてもいい〔以下、略〕――

『《斉民要術》選注』では著者の賈思勰を「地主階級出身の科学者」とし、当然のように「彼の思想には限界がある」。だが「歴史唯物主義の観点から社会における貧富の現象を解釈し、陰陽家の迷信に基づく荒唐無稽な話を批判している」と捉え、「『斉民要術』には欠陥も見受けられるが、内容豊かな農業書としての価値は失われるものではなく、賈思勰は我が国古代の傑出した科学者であることは間違いない」と褒め称えている。

一方、『《斉民要術》選注』出版の目的については、「我が国古代の農業技術の到達点を理解し、我が国古代労働人民の偉大な創造力を知り、我らが民族の自信を高め、読者をして法家路線が果たした自然科学への貢献、政治が技術を牽引する働きを理解させようとした」と解説する。

この辺りから、毛沢東路線に狂奔した文革路線をやんわりと否定し、民族主義を鼓舞しようとする意図が薄ぼんやりと浮かんでくるようにも感じられる。

『斉民要術』が編まれた6世紀は、我が大化の改新(645年)の1世紀ほど前に当たる。そんな時代から、要するに美味しい豚をたらふく食べるため。兎にも角にも味のいい丸々と太った豚を育てる方法を究めようとした探究心に感心(寒心?)に堪えない。加えて、そのことを文字にして文書で残そうというのだから、呆れるばかりの食欲に驚くばかり。その執念に唯々、頭が下げざるをえない。

四人組打倒のための“宮廷クーデター”に成功した後の共産党政権中枢は、大きく華国鋒支持派と鄧小平支持派の両派に分かれていたように思える。共に①毛沢東の権威と共産党の権力を守ること。②そのために四人組(+林彪派残党)の痕跡を消し去ること――では一致していたものの、その後の政権の「かたち」を巡っては大きくかけ離れていたはず。つまり共産党の「首」は「毛沢東が後継者に指名した」とされる華国鋒であるべきか。それとも鄧小平でなければならないのか。

もちろん、この問題は最終的には鄧小平の勝利によって決着し、1978年12月の対外開放政策実施へとつながっていくわけだが、当初は、やはり華国鋒支持派が有力だった。その顕著な一例が、1977年2月7日の『人民日報』『紅旗』『解放軍報』の共同社説「文献をしっかり学び、綱を確実に握りしめよう」だろう。ここに見える「綱」は、党の全権、あるいは絶対的指揮命令権と看做すことができる。

同社説は「およそ毛主席が手掛けた施策を我々は断固として堅持し、およそ毛主席が下した指示は些かも歪めることなく遵守しなければならない」と内外に闡明した。これが、「二つの凡て派」と呼ばれる華国鋒支持陣営の最初の“決意表明”であった。《QED》