【知道中国 2677回】                      二四・四・念二

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習343)

極めて素朴な疑問だが、この呉徳の講話の中の四人組を林彪、あるいは劉少奇に置き換えたとしても、左程の違和感はない。振り返ってみれば劉少奇、林彪に次いで四人組にも騙されたわけだから、「正確な共産党」と胸を張るほどのこともない。いや、むしろ、そんな怪しげなカンバンはトットと外すべきだろうに。

「正確な共産党」と「戦いに敗れることなき毛沢東思想」が主敵として名指して闘ってきた相手を改めて挙げてみると、60年代後半(文革前期)は劉少奇で、70年代前半(批林批孔闘争)においては林彪だった。ところがポスト毛沢東の時代に入るや昨日の友は今日の敵とばかりに、それが四人組に代わってしまったのだから、不思議としかいいようはない。まるで昨日まで凶悪犯を必死に追跡していた刑事が、今日から凶悪犯になってしまったようなもの。しかも、その理由がヘリクツとデタラメと身勝手のオンパレード。

考えてみれば劉少奇だって林彪だって、ましてや四人組だって、同じく「正確な共産党」を率い、「戦いに敗れることなき毛沢東思想」の旗を打ち振っていたはず。だが、いったい彼らが掲げていた旗の真贋はどうなっていたのか。

とはいえ、前後10年ほどの間に劉少奇、林彪、そして四人組という難敵を倒したわけだから、確かに「戦いに敗れることなき毛沢東思想」であったようだ。だが、「偉大にして、光栄あり、正確な中国共産党」なんぞと胸を張って広言できないようにも思える。

敢えて誤解を恐れずにいわせてもらうなら、「偉大にして、光栄あり、正確な中国共産党」にしても「戦いに敗れることなき毛沢東思想」にしても、敵に対して油断が過ぎるし、脇が甘過ぎたのではなかったか。その典型が、呉徳が講話の中で「引き続き鄧小平を批判し、右からの巻き返し策動に反撃する」と内外に向かって大見得を切っておきながら、ほどなく共産党は鄧小平の軍門に降ってしまったことだろう。

もっとも、その後の中国の変化を共産党史観で振り返るなら、鄧小平が「最高実力者」として君臨し続けたゆえに対外開放に突き進むことができたのであろうし、1989年の天安門事件の大混乱を乗り越えられたはずだし、香港の「中国回帰」も達成できたに違いない。

 

そうではなく「引き続き鄧小平を批判し、右からの巻き返し策動に反撃する」との方針の前に鄧小平がヘタリ込み、華国鋒政権が続いていたら、あるいは天安門事件を機に趙紫陽政権が誕生していたと仮定したなら、共産党独裁が崩壊していた可能性だと思うが。

これを言い換えるなら、鄧小平こそが一党独裁体制崩壊の危機を救い、権力基盤を再構築し、共産党政権の正統性を内外に示したと考えられるわけだから、皮肉でも冗談でもなく、文字通り“掛け値なし”に中国共産党は「偉大にして、光栄あり、正確な」のである。

『堅决擁護領袖華主席憤怒声討“四人幇”(一)』には呉徳の講話に加え、四人組の罪状を告発する30本近い記事や論評が収められているが、「唐山地震被災民救済活動より党の奪権を狙っていた」「企業管理破壊の陰謀を企んだ」「一皮剥けば西洋の奴隷だ」「蔣介石のお先棒担ぎだ」「根っからの投降派だ」など、とにもかくにも畳み掛けるように悪罵が続く。まさに彼ら得意のヘリクツの炸裂、あるいは罵詈雑言文学の全面展開である。

じつは文革期には各地で古墳発掘が進み、現代に伝わるのは書名のみといった古代の著作が発見されている。その詳細な報告・解読の一端が『銀雀山漢墓竹簡 孫子兵法』(銀雀山漢墓竹簡整理小組編 1976年10月)、『馬王堆漢墓帛書 戦国縦横家書』(馬王堆漢墓帛書整理小組編 1976年12月)として共に北京の文物出版社から出版された。「目下の批林批孔運動に組み入れ、儒法闘争の経験を締め括る意味から」、これら「司馬遷すら目にしたことのない貴重な資料」を検討することは極めて重要だ――と絶叫する。だが、四人組惨敗の後だけに、虚しく響く。政治に餌付けされた学術の宿命だろう。《QED》