【知道中国 260回】                〇九・七・念四

―陳腐極まりない結論・・・ダメだ、こりゃあ
『中国救荒史』(鄧拓 北京出版社 1998年)



 著者の鄧拓は、毛沢東が大々的にぶち上げ全土を挙げて猪突猛進した大躍進政策や人民公社化を陰に陽に当てこすった『燕山夜話』を出版し、毛沢東という凶暴な龍の逆鱗に触れてしまった。怒り狂う毛沢東は、文革に先立つ半年ほど前の66年3月に鄧拓を反党・反社会主義の悪人・裏切り者と完膚なきまでに批判する。鄧拓が生き延びる道は完全に絶たれた。かくて毛沢東と毛沢東思想と共産党を讃える遺書を残し自殺。古風な言い方をするなら、皇帝・毛沢東から「死を賜」ったというべきだろう。文革最初の犠牲者だった。

 本書の初版は彼が河南大学に提出した卒業論文を基に書き上げられ、盧溝橋事件勃発の1937年に出版されている。大躍進政策実施前年、ということは反右派闘争が行われた1957年には旧版の文語体を口語体に書き改め再販されているが、当然のことながら、この本が文革中に顧みられることはなかった。共産党が改革・開放路線を決定した直後の79年3月、彼の名誉が回復され党籍も復活し、それから10年が過ぎた98年、「水害、干害、その他の自然災害の根本的防止は、解決が強く期待される重大な課題である。この大切な時期に当り、多くの示唆に富んだ『中国救荒史』を一読すれば、必ずや多くの有益な啓発がえられることだろう」との「再版前言」を掲げ、この本が出版された。

 著者は『淮南子』『竹書紀年』『書経』『史記』からはじまり、『大清会典』を経て『中国年鑑』までのありとあらゆる文献に当り、神話の時代から民国初期にいたるまでに発生した自然災害についての記録を書き留める。たとえば清朝296年間の治世をみると、干害201回、水害192回、地震169回、雹害131回、風害97回、蝗害93回、凶作90回、疫病と霜雪害が共に74回で総計1121回の自然災害に襲われている。これに政治の無策、戦乱、社会不安、匪賊の跳梁跋扈が重なれば、「人ノ相イ食ス」という地獄絵図は常態化する。

 このような悲惨な情況を生むに至る第1の原因は自然克服への技術的立ち遅れではなく、社会関係にこそ求められるべきだと、著者は説く。「西周以来三千年間、我が国の農業技術の進歩は極めて限られたものであった」原因もまた、社会関係にあった。官による苛斂誅求や戦争が社会を荒廃させ、人民が腰を落ち着けて農業に立ち向かう条件を奪う。民間による慈善事業には自ずから限界がある。官は官で様々な対策を講ずるが、結局は看板倒れ。

 新田を開発したところで大部分は地方の豪強(=豪族)が掠め取ってしまう。新田で少数の農民が耕作できたとしても豪強の搾取に遭い農業生産力増強にはつながらず、農民生活は悪化するばかり。そのうえに地方官吏の上司への報告は粉飾だらけ。また往々にして官吏が勝手に課税するから農民負担は増すばかり。だから人民救済のための荒地開墾の本旨は失われるばかりだ――との清朝・乾隆帝の勅諭を引き、この本の巻末を著者は、「災害からの救済を目指す真の政策は、根本的にいうなら、過去の階級社会ではいかなる時代であれ実現は不可能だった。人民大衆が社会の主人公となる新しい時代においてこそ、災害救済史の新しい1頁を切り拓くことができるのだ」と、明るく力強く結ぶ。

 だが、新中国が成立し「人民大衆が社会の主人公となる新しい時代」が到来したはずなのに、自然災害も農民の苦しみも一向に止む気配はない。つまり中国は著者の目指した「人民大衆が社会の主人公となる新しい時代」に、まだ至っていない・・・のかな。トホホ。  《QED》