【知道中国 2667回】 二四・四・初二
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習333)
江青の動きだが、26日に新華印刷廠、清華大学、北京大学などを視察し、中国通史の学習を主張し、世界史に言及してビスマスクやナポレオンの死後、彼らの妻子は迫害を受けたと語り、28日には「鄧小平はデマ製造会社の会長であり社長だ。毛主席、私、それに革命同志に関するデマをデッチ上げた。ヤツは玉座に昇り皇帝を狙っている」と吐き捨てる。
28日に娘の李敏の見舞いを受けた毛沢東は、涙で顔をグシャグシャにしながらも彼女の誕生日を正確に口にしたとされる。また一歩、その時が近づく。
この月出版分は『法家人物及其著作簡介』(吉林大学・斉力 人民出版社)と『殷墟 奴隷社会的一個縮影』(河南省安陽市文化局編 文物出版社)の2冊。
前者は「中国古代大軍事学家孫武」から「資産階級革命家章太炎」まで30人ほどの政治家、科学者、思想家などを「法家」として紹介する。これまでの同類の著作と大同小異と言うよりも一種の焼き直しに近く、“法家賛歌”もタネ切れ感は免れそうにない。
後者は副題からして内容は想像できるのだが、70年代後半の“文革の黄昏期”における殷墟に対する公式的見解と捉えることもできそうだ。
「殷墟とは商代の盤庚から紂の時代(西暦前1395年から1123年)の間の王都の所在地であり、当時の政治、経済、文化の中心だが、商が周に滅ぼされた後、この王都も日に日に荒廃して廃墟と化し、長い間捨て置かれ、地下に埋没してしまった」。以後、清末に至って古代の文字が刻まれた亀甲や骨片が多く掘り出されるようになり、「1929年から考古学者による発掘がはじめられたが、解放前の旧中国においては殷墟に対する考察は微々たるものだった」のである。
ところが、である。共産党政権が成立するや、殷墟への関心が高まる。かくて以下のような“公式的見解”が羅列される。
――「新中国が成立することによって、殷墟に対する考古学的工作がやっと重大な進展をみせるようになった」
「この遺跡と出土品は、商代奴隷社会の政治、経済、文化などの歴史の面貌を明確に反映し、奴隷社会の階級対立と階級闘争の絵図を鮮やかに描き出している」
「原始社会において生産性は極めて低く、人々が使っていたのは石でできた粗末な道具だけだった。だから集団労働によって、漸く物質生活の問題を解決できたのである。当時の生産手段は公有であり、労働の成果によって公社の構成員全体の生活を維持するための需要をなんとか維持できたにすぎない」
「余剰物など一切なく、共同で平均に分配されていた。当時の人々は平等に民主的権利を持ち、共同事務に参加し、民主的に選ばれた公社の指導者は公社の管理事務に当たるだけで、如何なる特権も持たず生産労働も行っていた。私有制も、貧富の差も、階級も、搾取も圧迫もない社会だった」
「原始社会が発展を重ねた晩期、生産手段の絶えざる改良によって生産力は向上し続け、個人単位での生産が可能となった。先ず牧畜と農業の分化、次いで手工業または農業を脱した独立生産部門の分化と、社会は前後2度の分化を遂げることで労働生産性は向上し、人々の労働が生み出す生産物は自己の生存を維持するだけでなく、初めて余剰分が生まれるようになり、生産物の交換も日に日に活発化し拡大するようになった」
「私有財産が生まれることで、貧富の差という現象が出現することとなる。公社の構成員において、わけても指導者などは自己の職権を利用し交換の過程で公のものを私のものとすることで、彼らの手を経て交換された産品が蓄えられていった。かくて彼らは財産を増やし遂には富み栄え、他の多くの公社構成員は貧困になってしまったわけだ」《QED》