【知道中国 2666回】 二四・三・卅一
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習332)
『物体形状漫談』は科学常識解説書ではあるが、同時期出版の同種の書籍が科学的合理性とは掛け離れているばかりか、過度に政治的色彩を帯びている。加えるに自らの主張を正当化する根拠に毛沢東の“お筆先”を援用していたことと比較してみれば、やはり際立った違いを認めざるをえない。
敢えてその背景を探ってみるに、冒頭に掲げられた「他の全ての科学と同じように、数学は人間の必要から生まれ、土地の広さの把握と容積の測量から、時間の計算と機器の製造から生み出された学問だ」とのエンゲルスのことばに象徴されているように思える。
毛沢東思想は「専」より「紅」、つまり専門(家、性)よりは政治的自覚を重んじた。それというのも専門(家、性)は社会に支配と被支配の関係を生み、やがて階級社会を復活させ、“偉大な中国革命”を挫折させてしまう。やはり人民の政治的自覚を高め続けることこそが、階級のない平等な社会を実現させる道に繋がる、という考えだ。
だが、毛路線の結果として生まれた中国は“貧乏人の共同体”、極論するなら北朝鮮の“超巨大版”でしかなかった。鄧小平は、毛沢東が持った底抜けなまでに徹底した“精神主義”を弊履のように捨て去り完膚なきまでに否定した。それが白猫・黒猫論だ。
著者は本文中に「現実の世界で起こることは複雑であり、様々な要素によって決定される。問題に直面した時、あらゆる方向から考えるべきであり、決して一方向からだけで判断してはならない」とか、「モノの形状は多種多様であり千変万化する。だが、個々の形状というものは実際の必要性に応じて定まるものであり、ある種の人々の頭の中で憶断され造りだされたものでは決してない。労働人民の長期にわたる生産闘争と科学実験からこそ生み出された結晶である」との一文を、さりげなく差し挟んでいる。
かくて、「君たち少年読者がそれまで学んだ数学の知識と現実とを関連させ、問題の分析と解決に対する能力を高めることの一助になることを希望する」と『物体形状漫談』を結んだのである。
少年向けの科学解説書を装いながら、事実を多面的に捉え合理的に判断せよという主張は、毛沢東思想をメッタヤタラと振りかざす四人組主導の当時の単純・幼稚・野蛮・低劣な政治風土への鋭い批判とも見受けられる。
編著者の李実が実在の人物かどうか疑わしいだけでなく、やはり名前の「実」にある種の意図的な寓意――おそらく鄧小平路線の大原則でもある「実事求是」の「是」が暗示されている――が感じられてならない。
「復仇の思いは胸いっぱいに広がり、怒りの炎は燃えさかり続ける」(『天津人民反帝闘争史話 第二次鴉片戦争在天津』)といい、「我が民族の矜持、自尊心を養い強化する」(『青年自学叢書 簡明中国文学史 上冊』)といい、「君たち少年読者がそれまで学んだ数学の知識と現実とを関連させ、問題の分析と解決に対する能力を高めることの一助になることを希望する」(『物体形状漫談』)という――これを、数年後に到来する鄧小平時代への助走と捉えたいのだが、飛躍が過ぎるだろうか。
時代の流れは、たしかに大きく変わろうとしていた。
1976年8月に入ると、四人組の動きが俄に浮き足立つ。
6日、四人組の牙城である上海では、イザという時に備えてだろうが、配下の民兵指導部に現有武器の実態調査を命じている。因みに、民兵部隊は「突撃銃73,720丁、機関銃200丁、迫撃砲300門、銃弾1000万発など」を保有していたと伝えられる。
15日、瀋陽軍区内では「党と軍の内側に潜むブルジョワ階級は今日の世界における最も腐り果て、最も堕落し、最も反動的な階級である」との講話がなされた、とも。《QED》