【知道中国 2662回】                      二四・三・念三

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習328)

 (引用は前号から続く)五月二八日に、青島の日本紡績工場でおこった労働者の射殺事件に対する抗議も、この闘争には含まれていた。日・英・米帝国主義者は、軍事的威嚇と経済的脅迫の両方の手を使って、闘争を弾圧し・分断しようとしたが、労働者のストライキは秋までつづいた。

 【反帝闘争への自覚】国民革命の根拠地広州では、上海の労働者を支援する一○万の労働者のストライキがはじまったが、六月二三日、英仏軍が広州の租界からデモ隊に発砲し、二○○余人を殺傷する事件(沙基事件)がおこり、労働者の反帝闘争はいっそう燃えあがった。革命政府は対英経済断交、港の封鎖を行ない、大衆は英資ボイコットを行ない、二五万の労働者が一年四ヵ月におよぶストライキを決行した。

 五・三○事件とそれにつづく反帝闘争のなかで、労働者階級の階級的自覚は高まり、反的・反軍閥の革命の隊列は飛躍的に強化された。この反帝闘争に示された労働者の力量は、北伐戦争に呼応する武装蜂起へと発展して行ったのである。[石田米子]――

 以上が、文革当時の我が国の学界や言論界、さらにマスコミにおいて圧倒的影響力を発揮していた学者や研究者、マスコミ関係者を結集して編まれた『現代中国事典』における「五・三○事件」に関する解説である。

 ここで同事件を「中国共産党に導かれた中国の労働者階級と広範な人民大衆が帝国主義と封建主義に反対した最初の偉大な革命運動」であり、それは「偶然に起きたものではなく、帝国主義とその走狗である封建軍閥に対する中国人民――両者の間の深刻な矛盾の大爆発であり、同時に中国人民の絶え間なき覚醒の必然的な結果である」と捉える『中国現代史叢書 五卅運動』を改めて読み返してみると、その主張は奇妙なことに『現代中国事典』の解説と重なっていることに気づかされる。

つまり『現代中国事典』の「五・三○事件」は『中国現代史叢書 五卅運動』と同じ歴史認識で書かれている。これを敷衍するなら『現代中国事典』に集った日本における中国を専門とする学者やジャーナリスト――当時の我が国おける中国認識を主体的にリードした集団――の思考は文革色に色濃く染められ、毛沢東思想に絡め取られていたわけだ。

因みに安藤彦太郎を代表に斉藤秋男、菅沼正久、高市恵之助、野村浩一、波多野宏一によって構成された『現代中国事典』編集委員会は、「中国を知るためには、プロレタリア文化大革命の経緯と、その提起した問題、およびその成果とを避けてとおることはできない」と、同書の「はじめに」に記す。まさに忘我自失・右顧左眄・徹頭徹尾・文革万歳!

「五・三○事件」についてもう少し加えると、同事件が発生するや、広州の労働組織の支援を得た香港の労働者はストライキ(「省港大罷工」)による反英闘争に打って出た。殖民地政府(香港政庁)に対し政治的自由、法律上の平等、普通選挙、労働立法に加え、家賃値下げや居住の自由などを要求したのである。

 もちろん政庁は断固拒否する。だが労働者は怯むことなく反英闘争を続けた。世界の労働争議史上最長とも言われる激しいストライキによって、交通や電気など社会インフラは大きな影響を受け、経済は大打撃を被り、企業家は甚大な損失に苦しみ、香港は「死の街」と化した。この省港大罷工を仕掛けたのも、「五・三○事件」と同じく1921年の結党から間もない中国共産党であった。

ここで些か蛇足だとは思うが、「五・三○事件」を指導し犠牲となった共産党員の名前に注目してみたい。それというのも彼の名は顧正紅であり、常識的には紅は共産党を象徴するだろうから、共産党の正しさを暗示した名前ではないか。こ考えるなら、顧正紅という名前はドンピシャに過ぎ、なにやら急に胡散臭く感じられてしまうのだが。《QED》