【知道中国 2661回】                      二四・三・念一

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習327)

 1976年5月に入ると、四人組は「五・四天安門事件」の事後処理に打って出た。

 2日、王洪文が公安部党組織に対し「天安門事件は走資派が跳ね上がって起こした」と語り、治安当局が動く。その後の2ヶ月間に追悼詩詞文583件、現場写真10万8千枚余を証拠品として押え、2000件弱を立件し、北京だけでも388人を身柄拘束している。

 翌3日、国防科学委員会などの責任者から報告を受けた王洪文は、「主席(毛沢東)は党内にブルジョワ階級が存在している。難しいのは党内に巣くうヤツラだ。ヤツラの追求に当たって手抜きはするな」と厳命した、とか。

 メディアに目を転ずると、16日、『人民日報』『紅旗』『解放軍報』は「文化大革命は永遠に光を放つ――中共中央1966年の『五・一六通知』十周年を記念して」と題する共同社説を発表。「五・一六通知」とは、1966年5月16日に開かれた政治局拡大会議において採択された文革発動に関する「通知」を指す。この社説では「社会主義革命に当たってブルジョワ階級がどこに潜んでいるのか分からないが、じつは党内にいる。党内で資本主義の道を突っ走っている実権派(原文では「当権派」)である。資本主義の道を進もうとする走資派は依然として蠢いているのだ」との毛沢東の発言を引用している。

 18日、『人民日報』は四人組御用達筆杆子の梁効が執筆した「党内にブルジョワ階級は確実に存在する――天安門広場における反革命事件の分析」と題する論文を掲載し、「鄧小平こそ今回の反革命政治事件の黒幕の大親分である」と糾弾した。

 この月、毛沢東はラオスのカイセン首相(11日)、シンガポールのリー・クワンユー首相(12日)、パキスタンのブット首相(27日)と会見している。

 毛沢東はカイセン首相との会談後に介添え役の張玉鳳と言い争って心筋梗塞を発し、リー首相との会見の際には口から涎を垂らし、目はうつろで憔悴しきった姿だったとも伝えられる。ブット首相が毛沢東にとっては人生最後の海外からの要人あった。

 30日夜、毛沢東の血糖値は極端に低下し、全身から発汗がみられ、時に昏睡状態に陥る。

 この月に購入したのは『中国現代史叢書 五卅運動』(《五卅運動》編者組編 上海人民出版社)のみ。なぜ1冊しか購入しなかったのか。新刊書が極端に少なかったのか。購読意欲が著しく減退していたのか。それとも手許不如意だったのか。今となっては不明だ。

 ここで「五卅事件」(五・三○運動)について些か寄り道を。

文革期の昭和47(1972)年に日本の毛沢東主義者の代表格であった安藤彦太郎を筆頭に文革心酔派の学者やジャーナリストを総結集して編まれた『現代中国事典』(安藤彦太郎編 講談社現代新書)では、次のように解説していた。当時の日本における文革イデオロギーに迎合する“空気”を振り返ってみる意味からも、冗長過ぎることを承知のうえで、敢えて全文を引用しておきたい。

 ――【虐殺事件と立ち上がった労働者】一九二五年春、上海の日本資本の紡績工場では、賃上げ、待遇改善、労働組合承認などを要求する中国人労働者のストライキによる闘争が激化していた。五月一五日、内外綿紡工場でストライキを行っている労働者に向けて日本の資本家と上海租界の警察が発砲し、労働者顧正紅(共産党員)を射殺したほか、十数人の労働者を傷つけるという事件がおこった。上海の労働者と学生はこの虐殺に抗議する行動をおこし、五月三○日には上海の租界で一万を越す大衆が集まって抗議の大デモを行った。このとき、イギリスの警官が群衆に向かって突然発砲し、十数人を射殺、数十人を負傷させた。この事件を五・三○事件という。

 この虐殺事件に抗議して、翌六月には上海二○万の労働者、五万の学生、大部分の商店がゼネストを決行し、全国の大都市でも支援ストが行われた。《QED》