【知道中国 2656回】                      二四・三・仲一

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習322)

「張春橋を打倒せよ!隠れた悪をキレイさっぱり取り除き、時限爆弾を探り出せ!」「怪しい風が起こる処、必ずやバケモノが潜んでいる。本名は狸精(音は江青の本名である「李進」と同じ)で、化けた名前は蔣親(江青と同じ音)だ」「全国の人民よ立ち上がれ!『文匯報』(四人組メディアの総本山で上海に拠点を置く)の後ろ盾をツマミ出すために闘え!」「周総理に向かって吠え続ける『文匯報』という名の狂犬を絞め殺せ!」

死者を弔う清明節は4月4日。その日が日曜日だったからだろう。天安門広場には続々と人々が押し寄せ、最多時には200万人余の憤怒と怨嗟と熱気が激しく渦巻いた。

一連の動きに慌てた姚文元は「なぜ一握りの反革命分子を撃ち殺せないのだ。独裁は刺繍とは違うんだ」と叫ぶ一方、「気を確かに生き抜いてくれ」と夫人に向かって呟いた、とか。四人組の天下に黄昏が迫っていることを知ればこその覚悟の一言だろうか。

4日に開かれた中央政治局会議の席上、華国鋒は「一握りの悪漢が飛び出してきた」と語り、江青は「中央を攻撃している人物を、なぜつまみ出せないのです!」と。おそらくは金切り声で絶叫したに違いない。会議は全会一致で4日夜の広場制圧を決定し、毛遠新を通じて毛沢東の了承を取り付ける。

夜8時、広場に到着した呉徳北京市長は、①全員広場から立ち去れ。②ほどなく群衆に紛れ込んだ政敵を摘発するための実力行使に踏み切る。③10時以降に広場に留まる者は反革命分子と見なす――と告示した。

以後、翌朝に掛けて広場で起きた一連の事態を「四・五天安門事件」とも呼ぶが、1989年の「六・四天安門事件」当時と違って海外メディアによる現場での直接取材など考えられなかった。それゆえに現場での惨劇の実態は全く不明だ。そこで比較文学者で民主派の楽戴雲が激動の半生を綴った『TO THE STORM』(邦訳『チャイナ・オデッセイ 激動と嵐の半生を生き抜いて』上下 岩波書店 1995年)から次の一文を引いておきたい。

「翌朝(4月5日)、軍の若い記者で、北京に来たときにはよく私のところに顔を出していた潘から、この二時間後に、工場労働者と地方から呼び集めた男たちで武装した民兵が突入したことを知った。衝突は残酷だった。民兵が無差別に振り回す頑丈な棍棒の前に大勢の人が倒れた。百人以上の人々が記念碑のそばに残っていたが、彼ら全員が逮捕され、その晩は労働宮に連行された。若い解放軍の友人は一○時までその場にいて、包囲攻撃がピークを迎える前に脱出した。夜が明ければ天安門広場に血痕が見られるという噂が瞬く間に広がった」

「この時、3ケタに及ぶ犠牲者の遺体は天安門の内側に隠された」と記された回想録を読んだ記憶があるのだが、誰の回想録であったか、残念ながらハッキリとは思い出せない。

5日午前、毛遠新と江青から事態の顛末を聞いた毛沢東は、「君子は口も動かすが手も動かす」と語り、毛遠新を通じて政治局に対し、①天安門広場に見られた事態は陰謀であり、組織的な反革命暴乱である。②必要に応じて武力行使を許可する。ただし野戦軍の発動、および銃器の使用を許さず。③鄧小平に対し隔離審査を行う――を伝えた。もちろん政治局が了承したことで、鄧小平の再度の失脚が決定する。

6日、その後の状況を毛遠新から報告された毛沢東は、「士気は大いに振う。好! 好!好!」と連呼したとか。

7日午後7時、全国向けのラジオ放送で、①華国鋒が中共中央第一副主席兼総理就任。②鄧小平の党内外の一切の役職を解任――が伝えられる。その後、「天安門広場における反革命政治的事件」(『人民日報』)、「(事件の)根っこは党内に巣くう悔い改めない走資派にある」(『紅旗』)など、四人組勝利のうちに事態収集に向かっていたようだが。《QED》