【知道中国 2655回】                      二四・三・初九

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習321)

周恩来の死をキッカケに四人組批判は燎原の火のように全国に燃え広がり、さしもの四人組も想定外とも思える事態の急転ぶりに慌てふためいたに違いない。

1976年3月出版で手許に持つのは『批判党内那個不肯改悔的走資派』(人民出版社)、『投降派宋江評析 与少年読者談《水滸》』(陸磊 上海人民出版社)、『歴史知識読物 漢武帝』(北京儀器廠工人理論組 中華書局)、『《紅楼夢》浅説』(広西師範学院中文系七二級《紅楼夢》評論小組 広西人民出版社)の4冊だが、いずれの主張もこれまで出版された同系列と大同小異であり、出版の性質上、既定の方針・日程に従って“粛々”と印刷・製本され書店の店頭に置かれたわけだろう。

ここに上げた4冊のすべてを紹介するまでもないのだが、参考までに『批判党内那個不肯改悔的走資派』だけは挙げておくこととする。それというのも、事態の急変振りを象徴していると思われるからである。

四人組配下の筆杆子(イデオローグ)が、それまでと同じような論調の鄧小平批判の長大な論文を、それまでと同じように定期的に『人民日報』や『紅旗』に発表していた。そのうちの3月に掲載された6本を収めた『批判党内那個不肯改悔的走資派』は、「中国が修正主義に変質することを望まない全ての労働者、貧農下層中農、共産党員、革命幹部、革命知識分子は自らの立場を固め、旗幟鮮明に毛主席の革命路線の立場に立ち、右からの巻き返し策動に対する大闘争を徹底的に推し進めよ!」と、勇ましく結ばれている。

だが、一連の長大論文から共通して読み取れる“予定調和的過激論調”のトンマ振りが、逆に四人組の状況認識がトンチンカンに過ぎていたことを物語っている。つまり四人組は敵として見据える対象を取り違えていたように思える。

四人組は中国社会が抱えた現実に冷静に対応することなく、彼らの用語を借用するなら政治の“上部構造”である権力闘争の帰趨に専ら全神経を集中するばかりで、“下部構造”である無告の民の日々の営みに目を向けることはなかった。

一言で片付けるならば、四人組は無神経が過ぎた。人々の心の裡で沸々と燃え滾る“悪政”に対する怨嗟・憤激のマグマを軽視していた。あるいは見て見ぬ振りをしていた。いや、それに関心を向ける政治的センスを欠いていた。だから、民衆の憤激に虚を衝かれたがゆえに浮き足立ち、周章狼狽のまま付け焼き刃的に対症療法を繰り出すばかり。

だが四人組が同質集団による集団思考に陥っているゆえに、崩壊の危険や頓挫の危機を前にして、脈絡もなく湧き上がってくる感情に衝動的に突き動かされ、集団にとって不都合なことに目を向けることも忠言に耳を貸すこともなく、飽くまでも正しいことをしていると頑なに信じ込む。であればこそ的外れの彼らの対応が奏功するわけもない。

権力を弄ぶことに弄ばれた挙げ句の末路であり、彼らの時計の針は日没の一歩手前をさしていた。“宮廷クーデター”によって権力の座から放逐されるまで、四人組には半年ほどの時間しか残されてはいなかった。

四人組にとっての修羅場は、4月1日の午前2時の姚文元から新華社への電話から始まった。天安門広場に溢れる周恩来追悼の動きに慌てた姚文元は「これは下心を持つヤツが仕掛けた破壊工作であり、群衆を扇動し、中央に反対しようとする策動に間違いない」と、受話器に向かって叫んだそうだ。同じ頃、『人民日報』は記者を急派し、天安門広場での異変を逐一報告させている。

以後、周恩来追悼に名を借りた反四人組の動きは全国各地で炸裂する。各地で叫ばれた四人組攻撃の激越なスローガンの背後から浮き上がってくるのは、四人組を裏側で操っていたはずの毛沢東に対する無告の民からの限りない憎悪と憤怒だったはずだ。《QED》