【知道中国 2654回】                      二四・三・初七

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習320)

だが解放以後、わが国の工業・農業の生産は猛烈な速度で高まり、党と政府はミシン製造工業を極めて重視してきた。かくて偉大なる毛主席の「独立自主・自力更生」の方針の下、多くの省、自治区、市においてミシン工場が建設され、家庭用と工業用とを問わず各種ミシンの生産に着手し、いまや質・両共に日進月歩の状況にある。

一例を広州ミシン製造工場にみると、2日半の生産量は解放前の広州における全ミシン生産の15年分よりも多い。毛主席の「農業を基礎とし、工業を導き手とする」という国民経済発展のための総指針を真っ当に励行することで、わが国のミシン工業をさらに発展させ、より多くの人民大衆の需要と工業増産という要求を満足させたい。我々が生産するミシンは労働者・農民・兵士のためのものであり、労働者・農民・兵士に服務する。

要するに「労働者・農民・兵士に服務する」ために、『家用 縫紉機維修知識』が編まれたわけだ。些かリクツが勝ち過ぎるが、小さな部品の細部に至るまでイラストで的確に図示しミシンの構造と機能を判り易く解説しながら、より具体的に故障例を明示し、修理方法を懇切丁寧に教え、維持・管理・補修の大切さを説く。

実用的内容だと思えるが、最後に「これまで示した故障修理方法は飽くまでも一般的規律だ。複雑な要因が重なり故障が発生するゆえに、やはり全体状況を把握し、具体的に分析すべきだ。枝葉末節に囚われるな。一面的であってはならない」と俄然リクツっぽくなり、「偉大なる領袖の毛主席は『思索を提唱し、事物の分析方法を会得し分析する習慣を養成しなければならない』と教えている」と、ミシン修理らしからざる異質な結論に至る。

まさかミシン修理にまで毛沢東が持ち出されるとは。いくらなんでも大仰が過ぎる。だが、当時はミシン修理でも哲学で語る必要があった。それにしても猛々しいばかりにリクツっぽく、呆れるばかりに学習意欲に満ちたキミョウキテレツな時代だったわけだ。

1976年3月1日、理論雑誌『紅旗』(第3期)には、「ブルジョワ階級民主派から走資派へ」(池恒)、「文芸革命を堅持し、右傾化の嵐に反撃せよ」(初瀾)、「右傾化の嵐とブルジョワ階級の法権」(桂志)、「革命後継人の五条件の改竄を許さず」(趙源)など、“四人組御用達”の筆杆子(イデオローグ)による鄧小平批判の論文を掲載されている。

ここからは鄧小平批判の声が高まっているような雰囲気が受け取れるわけだが、それは中央だけのことであった。じつは周恩来・鄧小平支持――裏返せば四人組批判――を強く訴える大字報が、全国各地に出現したのである。その主だった地名を挙げておくと、

成都、山西省太原、貴州省貴陽、北京大学、福建省三明市、山西省西安、浙江省杭州、河南省鄭州、湖南省長沙、福建省廈門、黒龍江省チチハル、内モンゴル自治区フフホト、江蘇省徐州、広東省順徳、湖北省武漢、南京(南京大学、新医学院)、安徽省蕪湖など。

19日に北京朝陽区牛坊小学校が天安門広場の人民英雄記念碑に周恩来追悼の花輪を捧げたのを皮切りに、続々と花輪が寄せられる。23日には早くも公安局によって撤去され、北京市公安局長は「花輪の背後に階級闘争あり」と指摘するが、献花の動きは止まなかった。

全国各地に「死んでも周恩来を守護するぞ!」「周を批判すれば国は乱れ、反対すれば滅ぶ」「党と国のために働く鄧小平に、なんの罪があろうか」「江青反対」「姚文元反対」「野心家、陰謀家の張春橋を民衆の前に引きずり出せ!」「周総理に反対するヤツは誰でも打倒するぞ!」「四人組の化けの皮を剥がせ。中身は走資派だ」と、怒りの声が渦巻く。

26日、党政治局は中南海で会議を開き、江青、張春橋、王洪文らが鄧小平の右からの巻き返し策動を批判するのだが、会議中に王洪文の口から「上海、南京で大規模な反革命暴乱発生」と告げられたことから、同会議は中断せざるをえなかった。

31日、四人組は南京での動きに最大限の注意を払うこととなる。《QED》